短歌時評

白秋という視点 / 川本 千栄

2012年3月号

 昨年末に出版された、渡英子著『メロディアの笛―白秋とその時代』は、「短歌往来」の平成二十年六月から二十三年六月までの三年間の連載をまとめたものである。
 この本の特徴は、白秋の全生涯を追うのではなく、青年時代の上京前後から始まって、歌誌「日光」終刊の頃までを描いていることだ。つまり、明治三十七年から昭和二年、白秋十九歳から四十二歳の旺盛な活動の期間に焦点を当てているのである。

 もう一つの特徴は、副題である「白秋とその時代」が示すように、白秋という不世出の人物を中心として、明治末期から大正そして昭和初期の歌人や詩人・作家らを群像として描き出していることである。登場する人物も森外、上田敏を初め、木下杢太郎・高村光太郎・萩原朔太郎、啄木・牧水・茂吉・赤彦・夕暮など錚々たる顔ぶれである。

 最も面白かったのは、白秋とアララギの関係を時間の経過と共に詳細に追った点だ。渡は明治末から大正初期の、結社の枠を越えた自由な歌壇の交流を描く。当時、白秋は度々「アララギ」「潮音」等に作品を寄せている。またこの時代の結社誌には小説・戯曲・訳詩・西欧美術や文芸の紹介文や批評まで掲載されており、その後の白秋の活動は、自然と多岐に亘っていった。

 (…)大正初期の茂吉と白秋のふかい交流もこうした時代の空気のなかから生まれ、互いの作品の上でも影響を与え合ったのであった(…)
 しかし大正半ば、島木赤彦率いるアララギが歌壇の主潮流となった頃、赤彦は白秋との訣別を告げる。

 なぜどのように赤彦は白秋に訣別を告げたのか。渡は豊富な引用を通して、白秋という視点から赤彦のアララギを見、赤彦のアララギという視点から白秋を見る。こうした双方向の視点から短歌史を相対化しているところが、この本の最大の魅力である。このやり取りでは、赤彦のある意味人間臭い面が面白いのだが、赤彦のこの性格が、結社や歌壇の閉塞性を招いたとも言える。歴史の単なる一コマでは終らせられない問題である。現代の結社に属する私達も、常に独善性や閉塞性に陥らない注意が必要とされるのだ。

 さて、渡が連載の最終項である「日光」について書いていた時、東北の大震災と津波、続く原発事故が起こった。奇しくも「日光」創刊の一つのきっかけも関東大震災であった。

 (…)関東大震災に被災し、生命を拾い得た歌人達が白秋と同じく「今度の震災に得たものを決しておろそかにはすまい」という共通の思いを抱いていたことは、東日本大震災を経た私達にはよく理解できる真情である(…)

 白秋達の活動を読むと、東日本大震災後の私達も、表現というバトンを、時を越えて継いでいかなければならないと思えてくる。

 今年は白秋の没後七十年ということで、NHKカルチャーラジオでも高野公彦が一月から三月に掛けて「北原白秋 うたと言葉と」という番組を担当している。高野のテキストは柳川の豪商の子であった幼少時代から晩年の失明、そして死に至るまでの白秋の生涯を追い、又、彼の童謡や歌論も紹介している。
一般向けの概観に終るのではなく、乳母の死の経緯など、白秋を育てた古い町柳川の空気感の伝わるエピソードを織り交ぜながら、白秋の幅広い魅力を伝えてくれる。私達は斯くも才能豊かな先人を持っているのである。

 詩・短歌・童謡等多岐に亘るジャンルで、また広い人脈を持って活躍した白秋。今年は彼を通して、もう一度近代短歌を見直してみる良い契機なのではないだろうか。