短歌時評

何かがある / 荻原 伸

2011年11月号

 短歌をつくっている者にとって、年をとることや老いることにいったいどのよ
うな意味があるのだろうか。小高賢『老いの歌』(岩波新書)は、日本における
老いの現状や近現代の短歌を踏まえつつ、老いの短歌を考察し、これからの短
歌を論じている。

  老いてこそこころ淋しく園内婚九十六歳かがやいており
                       (中辻百合子・八十九歳)
  この年を年だ年だとバカにする悔しかったらここまで生きろ
                       (伊藤みね子・九十二歳)
                      伊藤一彦編『老いて歌おう』

 九六歳での「園内婚」や「悔しかったらここまで生きろ」には正直言って老い
に対する固定的な自分の見方を砕かれる。これらは確かに、名歌・愛唱歌の流
れではないが、「高齢社会ゆえの新しさ、ユニークさをもつ作品」だ。

 「老い」と「年をとる」ということにはもちろん違いがあるのだが、いくつか
の文脈で短歌と年をとることが語られていて、注目した。永田和宏は「座談会
前衛短歌の秀作(二)」(『短歌』一〇月号)において、加藤治郎、森井マスミ、
内山晶太らと秀歌を一首ずつ論じたあと、次のようにまとめる。

   歌で非常に大事な問題としてある、その人が年をとっていく、誰もが時間
  的な存在であるという問題に対する視点がそこ(前衛短歌―引用者注)には
  なかったと思う。みんな若いときのままでうたってると、どこかでドロッ
  プアウトしなければやっていけなくなる

 確かに、前衛短歌の名だたる歌人たちは、塚本邦雄を除くと、何らかの形で
一度 あるいはずっと歌から離れてしまった。逆に言えば、「誰もが時間的な
存在である」という地点に立っていては、前衛短歌運動は生まれなかったという
ことだろうか。興味深い。

 やすたけまり『ミドリツキノワ』に対する小池光の批評は、他者や読者の想
定がないモノローグな歌であることや、いつまでも年齢が変わらないというこ
とに絞られていく(「作品季評」『短歌研究』一〇月号)。その中で、小池は年齢
ということの重要性に触れ、「極端に保守的なことを言っている」と自覚しつ
つ、「実際五十歳近い女性の書くものが、年齢不詳というか、ハイティーンの
女の子が書くもののように見えるということは、やはりなにか根本的にそれは
違うので、短歌はそうじゃないんだよと言いたくなってしまう」と言う。どう
やらこれは感情的で思いつきの発言ではない。小池は繰り返して言う。
  
  短歌は年取らないのはダメなんだよ。そういうのは残っていないでしょ。
  やはり六十歳、七十歳、八十歳までいったら、年取っていくんで、そこに成熟
  というか、変化がみられないというのはぼくは評価しない。

 この発言を読みながら、斎藤茂吉の『白き山』と『つきかげ』についての評
価が上田三四二と小池では違い、そのことに『老いの歌』で小高が触れていること
を思った。
  
  税務署へ届けに行かむ道すがら馬に逢ひたりあゝ馬のかほ 
                             『つきかげ』

 上田が『白き山』を最高峰と評価する一方で『つきかげ』を「溷濁」があって
どうでもいい歌集と言ったのとは逆に、小池は『つきかげ』のおもしろさを評
価している。くっきりとした一貫性のある「私」ではなく、「私」からはみ出した
ような多重で「複相化」した「私」が感じられる歌。上の句と下の句が微妙に
ずれてしまっているユニークな歌。これら、老いによってゆるんだ感じのある歌を
溷濁や乱れとして棄却するのではなく小高は「短歌のフロンティア」と評価する。
なるほど、正統的名歌とは違った何かがありそうだ。

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