短歌時評

対話 / 荻原 伸

2011年8月号

  岩国の一膳飯屋の扇風機まわりておるかわれは行かぬを
                岡部桂一郎『戸塚閑吟集』

 この歌について島田幸典は、「一膳飯屋」「まわる」にふれた後に、次の
ように言う。

  あたかも旧友の息災を案じるかのような、生き生きとした心の動きが
  発想の原点に置かれている。「われは行かぬを」という念押しのような
  結句が、この印象を強める。再び訪ねることもあるまいという確信が、
  かえって記憶の扇風機に対する、固執にも似た作者の心寄せを際だたせる
  からである。  (「短歌研究」七月号)

 それから島田は、岡部の「天井より蛇のごとき管垂れて晩夏ガソリンスタ
ンドの前」他三首をあげて、「ここでモノの存在感はヒトのそれに引けを
とっていない。そしてそのそれぞれに個物と新鮮な出会いをし、驚く岡部の
柔らかな感受性が息づ」くと述べる。この島田の読み(または岡部の感受性)
に私は驚かされた。というのは、「旧友」を案じることと「扇風機」を思う
ことには大きな差があると思い込んでいたからだ。たとえば、人の場合、
その人の存在(出会い)が自分にとって動かし難い価値をもっているから
こそ心を寄せる。
 だが、モノというのはAがだめならB、団扇に代えて扇風機と機能を
すげ替えることもあるし、限定品や特別仕様など有限性や特殊性において
心寄せるという感じしかない。
 
 ところが、島田の読みではそれが人に対しても日常にあるモノに対しても
区別のないように捉えられている。これは、一回性や有限性や特殊性(これ
らはいずれも他と比べている)ではない次元での人やモノの捉え方だ。人も
モノも、それ自体が既に、過去や現在や未来の自分にとって動かしがたい
存在(出会い)であるという関係の捉え方を島田はもっている。昔も今も
これからも、そのモノや人との関係が自分を形作り、支えるというような
存在(出会い)としての人やモノ。

 石田比呂志は今年二月二四日に亡くなった。その人を思うときにどのよう
なその人が自分のなかにあるのか。

  弔いのビール喉(のみど)をくだりつつ苦けれど没主観の苦味
                 島田幸典(「短歌」七月号)

  石田さん編みしアルバムと思うさえ可笑しきに十代の我が写りぬ

  白梅に禽の遊ぶをその人の代わりに庭に出でて眺めつ

 高校生の頃の島田と石田の邂逅はここに書くまでもなくよく知られた話。
一首めは、通夜ぶるまいの一コマ。「没主観の苦味」とは、つまり、弔いの
ビールだから何か特別な味がするのかと思っていたのに、それは、特別では
なく、いつものビールの苦味であった。いつ飲んでも感じる苦味を「没主観
の苦味」と言う。これは反転して、弔いのビールとの新鮮な出会いと言える。
 二首め。いま手もとにある「アルバム」は「石田さん」が留めておきたか
った、残したかった写真。あの島田さんがそんなことをやっていたのかという
「可笑し」さと、そのアルバムをその人の通夜に自分が見ているという奇妙さ。
加えて、過去の自分がその中にいることの新鮮な出会い。
 三首め。「白梅」に鳥が遊ぶというのはよくある風景。けれど、それを
「その人の代わり」に見ていると言うとき、そこには、眼を通じて、亡くなった
「その人」とつながっている感じがうまれる。

 「その人の代わり」に眺めた庭の風景が、いま庭に出た島田と既にこの世に
はいない石田を語り合わせるようである。つまり、決して特別ではないモノを
媒介にして島田は石田と対話しているのだ。一回性や有限性や特殊性を越えて。

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