短歌時評

読者と作者、とわたし / 荻原 伸

2011年6月号

 高野公彦『うたを味わう』(柊書房二〇一一)の「六月の味」に次の記述がある。「風更けて星遊ぶ濃きひかりあり海鞘食みてこそみちのくの酒 馬場あき子/一度だけホヤを食べたことがある。仙台に行ったとき(略)居酒屋で食べた」「磯くさくて」「日本酒によく合う」「右の歌、宵の口を過ぎて本格的な夜になったころ、きらめく星を眺めながらホヤと酒の取り合わせを舌で楽しんでいるのだろう」。読者としての高野が仙台という土地で海鞘と酒のであいを体験していて、それが歌の読みをぐんと立ち上がらせている。

 この本と同時に『うたの回廊』(柊書房)も出版された。こちらも短歌が多面的に論じられていて学ぶことが多い。読んでいて感じるのは、歌に対する高野の基準や価値観である。それは、よい歌とはいかなるものか、読みとはいかなるものか、ということである。たとえば、高野は、文の構成要素の一部が欠落しているからわかりにくい歌になるのではないか、いや、それは「レティサンス」(故意の言い落とし)なのではないかと逡巡する。また、「徒然草」の「うしろむきの狛犬」を引きながら「出来損なひによつて意味不明となつた歌を、有り難がる必要はない」と語る。歌に対して謙虚に、真摯に向き合うなかで、「短歌を読む時、読者は表現されてゐることを全て読み取らなくてはならない。と同時に、表現されてゐないことを勝手に読みとってはいけない」とも言う。シンプルな発言だか、なかなか難しそうでもある。
  
  テクストにはテクストが内在する読みのコードがそれぞれ備わっており、それから
  極端に逸脱する読みは受け容れられるものではない/テクスト論の本質は、作者
  が気づくことの出来ないテクストの読みを提示し、テクストの可能性を拓くもので
  ある(江田浩司「短歌往来」四月号)
 
 都築直子(「短歌研究」五月号)は「井泉」の彦坂美喜子「団塊の世代の歌人論」に注目している。彦坂は、小池光の「生徒らが校歌うたはぬゆゑよしを知るか同じ理由に唱はざるのみ」の結句「唱はざるのみ」の主語=小池として読んだ。すると、小池から「一ヶ所、誤解があります」、この歌の「主語は全部生徒」であると告げられる。結果、彦坂は「私の解釈は誤りであると陳謝し、訂正」した。この事態に、都築は、作者が読みについてその読者に異議申し立てを行ったと判断し、否定的である。その結果、「作品は誤読されるのがあたりまえであって、それを受け入れる用意のない作者は作品を公にしないほうがいい」と言う。なるほど、自作について作者が異議申し立てを行うのには、私も違和感がないわけではない。だが、この問題、もっと別のことが問題なのではないか。

 「『唄わない』という態度を意思表示している」というのは全く誤解です」「わたしは、そういう思想に批判的であり、そんなところからあの一連を書きました。その点誤解されている(「井泉」三六号)」と小池は書いている。つまり、わたし小池光がこんな思想をもっていると考えるのには「誤解があります」と改めているのだ。決して「誤読」だとは言っていない。彦坂も都築もこれを小池が「誤読」を指摘したとすり替えて受け取ってしまっている。仮に「唱はざるのみ」の主語を生徒ではなくても、作中主体として読みをとどめていたら、これを小池は「誤解」と言っただろうか。即ち、作中主体=作者=そのひと本人、という単純な構図でもって、「=」で置き換えてしまう読み。作品を読んでいるようで、知らぬ間にそのひと本人のこととして読みを成立させてしまうこと。小池はそこに異議申し立てを行ったのではないだろうか。

ページトップへ