短歌時評

読者に思いをはせる / 荒井 直子

2010年11月号

 「歌壇」八月号に掲載されていた本多稜の作品「晩春の河馬」に興味をひかれた。ちょっと変わった連作で、
  長髪を梳くはかやうな心地ならん林に入りて松風を聴く
  하늘과 땅 사람으로 입 모양을 나타내는 글자를 뇌가 즐기며
  第一滴 雨点落下 土香飘 清晨来临 春,河回村
というように、一連の作品は日本語、韓国語、中国語の三つの言語を順繰りに使って書かれており、全ての作品の両脇にそれぞれ作品本文以外の二言語によるルビが添えられている。例えば一首目の歌に付されたルビは(カッコ内はヨミ。便宜的にカタカナを使うため正確に表記できない部分はご容赦を)、右側に中国語で「就好像 梳长发的 感觉吧 进入林间 聆听松风」(ジウハオシャン/シューチャンファーダ/ガンジュエバ/ジンルーリンジェン/リンティンソンフォン)、左側に韓国語で「긴 머리를 빗는 것이 이런 느낌일까 솔밭에 들어가 바람을 듣는다」(キン モリルル/ピンヌン ゴシ イロン/ヌッキミルッカ/ソルパテ トゥロガ/パラムル トゥンヌンダ)と記されているのだが、その意味は(韓国語では下句が「松林に入り風を聴いている」になっているというような微細な差異はあるものの)、日本語で記された作品本文の対訳であり、音数は、どちらもおおむね五・七・五・七・七のリズムを刻んでいる。つまり、これらは本文に対するルビであると同時に、中国語・韓国語で書かれた短歌作品でもあるというわけで、その手の込んだ仕掛けには舌を巻く。

 中国語や韓国語の短歌は初めて読んだが、それらがほとんど無理なく定型に収まっていることにも驚いた。特に中国語の作品は、声に出して読んでみると四声の抑揚も相まってリズムがとても心地よく、短歌の定型とかなり相性が良いと感じた。そして、三種類の言語を交互に並べるという一風変わった表記が選択されたのは、この一連が「朝鮮族の君」すなわち朝鮮半島にルーツをもつ中国人の女性と、日本人である「われ」との間の物語を書いたものだからなのだろう。もしかしたら二人の会話もこの三つの言語を使い分けながらなされていて、それを視覚的に表現するという意味も含まれているのかもしれない。

 だが、三つの言語を駆使して短歌を書くという斬新な試みに感心しつつ、ところで本多はいったいだれを読者と想定してこの作品を書いたのだろうと疑問に思った。作品の発表媒体が日本の短歌総合誌であることを考えれば、中国語や韓国語の話者に向けて日本の伝統詩である短歌を紹介する意図で書かれたのではないことは明らかだ。一方、この作品の掲載誌の読者である日本の短歌愛好者で中国語や韓国語を理解する人は多くないだろう。一連のすべての歌に日本語表記があるので、それを拾い読みしてゆけば中国語や韓国語がわからなくても意味を追うことはできるが、多くの読者が日本語部分しか読まないとすれば、この作品を十全に読みうる読者はほとんどいないということになるのではないかと思ったのだ。佐佐木幸綱は、歌集『蒼の重力』の栞で「『分からない人には分かってもらわなくていいよ』という姿勢が見てとれて、そのいさぎよさが私には新鮮だった」と本多を評している。もちろんここで佐佐木が評価しているのは、読者受けを狙わないという意味で読者を意識しないことであり、それには私も同意するのだが、でもやはり「分からない人には分かってもらわなくていい」というのはちょっと「いさぎよ」すぎるのではないか、読者に媚を売ることと読者に思いをはせることとは違うのではないかと思ったのだった。
、読者に媚を売ることと読者に思いをはせることとは違うのではないかと思ったのだった。

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