短歌時評

短歌の批評をめぐって / 荒井 直子

2010年8月号

 作品と批評が短歌の両輪であるということがよく言われる。たとえば、正岡子規は「歌よみに与ふる書」をはじめとする歌論を精力的に書きながら二千首に及ぶ歌を作ったし、佐藤佐太郎が独自の作品世界を築き上げていった背後には、自らが主宰していた歌誌「歩道」における「純粋短歌論」の連載があった。このような考えに対し、短歌にはただ美しい作品だけがあれば良いのであって、批評などは余計なものだと言う人もあるかもしれないが、私自身は、批評が作品を磨くと信じて、大切にしていきたいと思っている。

 だが、実際のところ、短歌を作ったり読んだりはするけれど、評論はなんとなく敷居が高くて読まないという人は結構いるのではないだろうか。評論を書く人ということになると、さらに数が少なくなるだろう。青磁社の週刊時評として掲載された川本千栄「評論に求めること」は、そうした状況を踏まえて、評論がもっと多くの人に読まれるためには、できるだけ難解さを排除してわかりやすくする必要があると主張したのではなかったかと思う。

 川本のこの時評をきっかけとしてインターネット上において繰り広げられた、川本と江田浩司、西巻真らによる短歌の批評のあり方をめぐる議論を、私も非常に興味深く読んだ。しかし残念なことに、この一連の論争は、「短歌の評論を書くのは、誰に向けて、何のためなのか」(松村由利子「批評とは何か」)、「あなたは短歌の批評をどうあるべきだと思っているのだろうか。また、自分はどのような批評を目指しているのか」(江田浩司「短歌の批評について考えてみませんか―川本千栄への問いかけ、補記」)という、重要な問いを提示した点で意義があったものの、互いの意図がいまひとつ噛み合わないまま、やや消化不良な形で終息してしまった。

 この論争が、それぞれの論者の熱意にもかかわらず、一向に議論を深めることができなかった原因は多分に、一連のやり取りがインターネット上において行われたことにあると私は思っている。なにしろ、議論のきっかけとなった「評論に求めること」が掲載されたのが三月十五日で、それから四月二十六日の川本の「読者とは誰か」に至るまで、一ヶ月半に満たないわずかな期間に、実に十二編の評論が飛び交ったのである。本来、だれかが書いた評論に対して反論をしようとするならば、まず相手の書いたものをつぶさに読んで論点を整理し、反論の手順を構想したうえで、自分の意見を裏付ける資料や先行研究を集め、それらを分析しながら書き進めるのだから、相当の時間が必要になるはずなのだ。それなのに、今回の論争においては、相手の評論に対する反論の発表までのスパンが最短で一日という驚異的なスピードで議論の応酬がなされた。これでは、近視眼的な反論合戦に終始して、短歌の批評について考えるという大きなテーマに向けて議論が深まらなかったのも当然というべきであろう。確かに、雑誌媒体に比べインターネットでは打てば響くようなスピーディーな議論ができるということが大きな特長ではあるが、そのことが逆に早く反論を発表しなければという無用のプレッシャーになって、結果、丁寧な議論のやり取りができなかったという側面があったのではないだろうか。

 なお、今回の論争では誰も触れていなかったが、短歌の批評をめぐっては、歌人が批評家を兼ねていて専門の批評家が不在であるという問題をはじめ、すでにこれまで多くのことが議論されてきた。それらを再度読み返しながら、短歌の批評のあり方については引き続き考えていかなければならないと思う。

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