短歌時評

今を詠うということ / 荒井 直子

2010年7月号

 最近、折々の行動や気持ちを「つぶやき」と呼ばれる短い文章にして投稿するツイッターというサービスが人気である。一度に投稿できる文字数は一四〇字以内と少なく、先に普及したブログ(インターネット上の日記)よりも簡便に書き込めるうえ、電子メールやチャット(インターネット上の井戸端会議のようなもの)ほどには拘束力のない形で、同時に複数の相手とのコミュニケーションができるということもあって、現在、世界で一億人以上が利用しているという。これほど多くの人が、インターネットという仮想空間に向かって胸の内を「つぶやいて」いるということにはちょっと驚く。だが考えてみれば、短歌もまた、心の中に収めておけない思いを虚空に向けて「つぶやく」ように表出する方法の一種であるといえるかもしれない。ツイッターという世界的な現象と、日本の伝統詩である短歌とは、一見とても遠いもののように思えるけれど、少ない言葉で何かを表現するという点において、短歌とツイッターはよく似ている。

 また、今起きていることを同時進行的に表現できるという点においても、短歌とツイッターは類似している。先月の時評では、過去の記憶を詠うということについて書いたけれど、短歌が、その短さという特質から、今まさに起こっているできごとや心の動きを即時的に詠い留めることの方が得意な詩形であるということは疑いないだろう。実際、ふだん歌を作っていても、記憶を手繰り寄せて表現を練り上げるというよりは、ハッとひらめいた言葉を忘れないうちにと急いで書き留めることの方が多い。

 いま私は、短歌は今を詠うことが得意な詩形であると述べた。しかし、矛盾するようだが、今を詠うということは、実はとても難しいことでもある。ここで私が「今」と言うのは、ひとつには、結婚、出産、退職などといった、個々のライフステージにおける意味での「今」のことを指しているのだが、そうした個人的なできごとにまつわる歌は、往々にして、ツイッターに満ちあふれている「今起きた」という類の他愛のない「つぶやき」にも似た、単なる事実の報告になってしまうという危険性をはらんでいる。他方、現代とか同時代という意味での「今」を詠うことはさらに難しくて、できごとの全容を把握してもいないのに断片的な知識のみによって詠うのは軽率であるとか、メディアからの情報に接して反射的に詠うのは安易に過ぎるといった批判が常につきまとう。とりわけ、不透明で先の見えない現代社会においては、その困難の度合いはいっそう増しているといえるだろう。

 もちろん、短歌はだらしなく垂れ流されるツイッターの「つぶやき」と同じようなものであってはならない。だが、「今」はその時どきに詠っておかないと、結局詠われないままどんどん過ぎ去り、やがては消えていってしまう。それならば、「今」を詠い残すためにできることは、批判されることを恐れずに、まずはとにかく自分の言葉で詠ってみること、そしてそのなかからどの歌を発表してどの歌を発表しないのかを悩みながらも自分で選んでいくことしかない。ずいぶん効率が悪いようにも思えるが、結局はそうした過程を繰り返すことによってしか、短歌で「今」を捉えることはできないのだろう。自分は混沌とした現代社会に頼りなく浮遊している存在に過ぎないし、自分が作る歌は小さな声の「つぶやき」でしかないけれど、その「つぶやき」が「今」と切り結ぶものであってほしいという志向だけは常に持ち続けながら詠っていきたいと思う。

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