短歌時評

記憶を詠うということ / 荒井 直子

2010年6月号

 三月三〇日に竹山広さんが亡くなられた。私はただ竹山さんの作品に遠く憧れていただけの一ファンに過ぎないけれど、それでも逝去の報に接し、歌を作っていくうえでの道標を失ったような喪失感を覚えずにはいられない。

 竹山さんの歌については、上質のユーモアとか、周到に練り上げられた修辞・表現の面などに着目した多様な視点からの読みが多くの論者によってなされているし、実際歌集を読むと、日々の暮らしやありふれた風景を詠った歌にしみじみといい作品が多い。しかし、竹山さんの歌の最重要の部分がやはり原爆の歌にあるということは疑いない。
  背なか一面皮膚はがれきし少年が失はず穿く新しき靴   『とこしへの川』
  汲みきたる水を待ちゐよと言ひしかば踝の手を離しくれにき  『葉桜の丘』
  亡骸の子はその母に遇ひしかば白きパンツを穿かせられにき    『残響』

 私は戦後生まれで当然原爆の体験はないのだけれど、これらの歌を読むと、その場面が鮮明に目の前に浮かんでくる。そして人間という存在の本質的なかなしみのようなものをずしんと心に感じて、「ああ、わかる」という気持ちになる。いや、「わかる」というのは正確な言い方ではない。本当は全くわかってなどいない。歌を読んだところで、竹山さんが味わった苦しみを全く同じように味わうことはできないし、竹山さんの苦しみは私自身の苦しみにはなりえない。でも、これらの歌を読み、竹山さんが体験した苦しみに思いをはせることで、すくなくとも私は原爆というできごとについて全く関わりのない者ではなくなったというふうに思えてくるのである。

 そんなふうに感じるのは、これらの歌が徹底して竹山さんの記憶の中にある具体的な場面に拠って詠われているからだ。だが、原爆の記憶を言葉で表現するということは、すなわち原爆を再体験するということである。原爆の体験がない読者の私でさえ、詠われている悲惨な場面が目の前に浮かんでくるのが怖ろしくて想像力のスイッチを切ってしまいたくなるのだ。だとすれば、その場面の記憶をありありともっている竹山さんにとって、それがどれほどの苦痛であったかは想像に難くない。実際、竹山さんが戦後しばらくの間、「原爆を歌はうとしたが、原爆の歌を作ろうとするとその場面が必ず夢の中に出て来て苦しむ。そのため原爆の歌が作れなくなり、さうしたら他の歌も作れなくなつて、歌を放棄」(馬場昭徳「竹山広『とこしへの川』から『空の空』まで」/「短歌往来」二〇〇八年八月号)という状態になり、原爆の歌をつくるまでに実に被爆から十年もの年月を要したことはよく知られている。

 それにもかかわらず竹山さんがその苦しみをあえて引き受けて原爆の記憶を詠ったのは、「詠ひて誰に遺しゆかむといふならずただ一人おのれみづからのため」(『千日千夜』)などと詠われてはいるけれども、やはり、この悲惨なできごとの記憶に言葉を与えることによって、それを体験しそして死んでいった者たちが間違いなくいたということを忘れたくないと意志したからにほかならない。原爆にまつわる竹山さんの記憶は、「被爆時の記憶さへ妻と相たがふ三十五年念念の生」(『とこしへの川』)と詠われているように、原爆というできごとのうち、竹山さんが体験し得たごく一部分であるに過ぎない。しかし、極めて個別の記憶に拠りながらも、竹山さんの原爆詠はどこか普遍性を纏っている。そのことに主題というものの力を思う。竹山さんが読者に手渡そうとしたものが何なのかを考えながら、大切に読み継いでいきたいと思う。

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