短歌時評

テキストだけで短歌は読めるか / 荒井 直子

2010年5月号

 たまたま別のところに文章を書いたのを機に斎藤史の歌集を再読している。史は私の好きな歌人のひとりだ。だが、振り返ってみると私と史の歌との最初の出会いは悲惨なものだった。高校の国語の授業で現代短歌の単元をやった時のことである。教科書に載っていた「野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせだす」を解釈するよう指名された私は、全く手も足も出ないまま、うなだれながら「わかりません」と答えることしかできなかった。私の中に斎藤史という名はわけのわからない歌人としてまずインプットされた。後になってちょっと読んでみようかという気になったのは、自分が短歌を始めたということと、史の住まいが実は高校生当時の私が住んでいた家の近くにあったことを知って親近感を覚えたからである。最初に読んだ歌集は、大学の図書館にあった『現代短歌全集』所収の『魚歌』。そして、歌集を一冊読んだことで、私の中の史に対するイメージは一変した。

 でも、今になって思うのだ。むろん手袋が花を咲かせることなどありえないから、この歌が実景でないということはすぐにわかる。だが、作者の斎藤史とはどういう人なのか、この歌はいつ・どういう状況で詠まれたのか、歌集の中でほかのどのような歌と並べて配置されているのかといった情報を提示することなしに、この歌一首だけを目の前に出されて解釈せよと言われても、現代短歌を読む訓練を全くしていない当時の私に、それが作者のどのような心象風景を映したものなのかを正しく読みとることなどできるはずがなかったではないかと。短歌を読む訓練を積んだ歌人、例えば松村由利子は、この歌に春の軽やかな気分を読み取って、「春の訪れと共に、氷は溶け、花が咲き始める。ものみな芽吹く季節に作者の心は浮き浮きとする。捨ててしまった手袋のことを、何だか気の毒にも思う作者の若さが楽しい」(『語りだすオブジェ』)と鑑賞しているが、そのような読みは、史がモダニズムの影響の色濃い幻想的な詠風で出発した歌人であるということ、そしてこの歌が収められている彼女の第一歌集『魚歌』の前半部分には、巻頭歌「白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう」に代表される華やかな春の歌が多く含まれているといった予備知識があって初めて可能な読みではないかと思うのである。あの時の私は、そのような情報を全く持ち合わせない状態でこの一首だけを取り出して読んだために、「黄な花」の明るさよりも、「野に捨てた」「黒い手袋」のネガティヴなイメージを強く感じて、何だか気持ちの悪いわけのわからない歌だと思ったのだ。

 作品に書かれた〈私〉と作者である「私」は必ずしも一致するとは限らないのだから、作者の実人生などは考慮せずに、テキストだけに拠って歌を読むという人がいる。もちろん、歌の読みは、まずそこに書かれてある言葉を忠実に読むことが基本であり、作者にまつわる情報をむやみに振り回して歌を曲解するようなことは厳に慎まなければならない。殊に、史のように、背後に二・二六事件という歴史的なできごとに関わる情報がべったりと貼り付けられている歌人の作品ならなおのことだ。しかし、どのような歌であれ、その背後には必ず作者がいる。作者や歌の背景についての知識をもったうえであえてそういった情報というバイヤスを一旦外して読むことと、最初から全く知らない(あるいは知ろうとしない)で読むのとはやはり違うだろうと思うのだ。テキストだけで短歌を読むというストイックさは、時に作品に対する深い鑑賞を妨げるように思う。

ページトップへ