短歌時評

短歌史を学ぶということ / 荒井 直子

2010年1月号

 今年一年間時評を担当させていただくことになった。時評というからにはその時どきの最もホットな話題を取り上げるというのが本当なのかもしれないが、そうはいっても自分自身の興味に関わりなくただ目先のできごとを追いかけて右往左往しているというのでは書き続けるのがつらいし、読み手にとってもつまらないだろう。非力ではあるが、目の前の現象を自分に引き寄せ、自分の身の丈に合った言葉を使いながら、何か少しでも普遍的な問題につながる回路を開けるような、そんな時評が書けたらと思っている。

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 岡井隆が小高賢を聞き手に語った対談の記録『私の戦後短歌史』(角川書店)を、興味をもって読んだ。
 短歌史などというと、何やら大仰な、つかみどころのないような感じがして近寄りがたいけれど、本書は、岡井が九州に逃れていた間にゴルフとボウリングと車の運転に熱中していた話だとか、NHK学園のオーストリアへのツアーで今の奥様と知り合ったいきさつといったワイドショー的な要素も手伝って、おもしろさに引き込まれるようにして読み進んだ。

 それとともに、岡井という当事者しか知り得ないエピソードの数々を、本人の肉声を聞くようにして読むことによって、「第二芸術論」とか「前衛短歌」といった、自分にとってこれまで短歌史上の用語でしかなかったことがらが、その背後に生身の人間のさまざまな心の動きをともなったできごととしていきいきと感じられたことはとても新鮮だったし、短歌史とは無味乾燥な事実の羅列なのではなく、そして、短歌史を学ぶということはそれぞれの時代に短歌と格闘した人たちのその格闘の跡をたどる作業なのだということを発見した思いがした。

 ただ、当たり前のことではあるが、これはあくまでも岡井隆という一歌人の目を通しての戦後短歌史であって、これが戦後短歌の全容というのでは決してないし、またもとより「正史」などというものがあるわけでもないということは忘れてはならないだろう。

 例えば、「短歌研究」の経営が小野昌繁に移り、また「短歌」の冨士田元彦が異動となって編集を下りた一九六二?三年頃の雰囲気や反前衛短歌の立場をとっていた人たちのことを、岡井は「前衛狩り」という言葉で語っている。すると、私自身もそういう言葉に引きずられて、前衛短歌の方が正しくて、それに反対し抑圧しようとする人たちは守旧派の反動勢力であるというイメージをつい持ってしまうのだが、でもそこを踏みとどまってそのような見方を相対化し、「前衛狩り」などという非難めいた言い方をされる側にもまたそちらの言い分があるはずだという想像力をもつことはやはり大切だろうと思うのである。本書を機に、今後多くの歌人によってそれぞれの短歌史が語られてほしいと思う所以である。

 最後に、これは編集についての不満なのだが、「短歌史」を名乗る本であるのだから、簡易でよいから年表をつけてほしかった。対談ということで、話の流れの中で、その頃こういうこともあったというような場面が多々出てくるのだが、話の内容にすっかり気を取られているうちに、その「その頃」が一体いつを指しているのかわからなくなってしまい、ページを戻って読みなおすということが何度もあった。巻末に付された「岡井隆著作一覧」がある程度その役目を果たしてくれたが、年表があれば、いま語られていることがいつのことなのか、また別のところで語られていたこととの前後関係がどうなっているのかが一目で分かって便利だったのにと思う。

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