短歌時評

二〇〇九年、短歌の定義を問い直す / 澤村 斉美

2009年12月号

 この一年、結社誌で行われた充実の企画・論考は把握できたものだけでも数々あるが、特に注目した三つを挙げたい。まず、「りとむ」は二〇〇九年一月号で百号を迎えた。一九九二年七月の創刊から十六年と六ヶ月経つという。「全員野球の精神」(三枝浩樹氏)で取り組んだとの言葉どおり、作品特集、評論特集など充実の記念号となった。その中の企画の一つ、資料篇として収録された「今野寿美編 東西南北語彙」(以下、「語彙」と略す)は近代短歌を読む人にとっては貴重な資料となるだろう。これは、与謝野鉄幹の最初の詩歌集『東西南北』収録の各歌を品詞分解し、歌に詠みこまれた全単語を見出し語として五十音順に並べたものである。見出し語の後には、その語が使用されている歌の番号を示し、語の使用状況が一目で分かるようになっている。私は実際に、『東西南北』を、「語彙」を参照しながら読んでみた。たとえば、「ほととぎす」の歌が多い印象を持ったので、「語彙」の「ほととぎす」「山ほととぎす」の項を引く。すると計十一首ある。これは、全二五四首中の約四パーセントにあたり、「月」や「こころ」といった使用回数が別格で高いものを別にすれば、名詞の中ではかなり多く使われていることになる。そこで、歌番号に従って一首一首を改めて読むと、『東西南北』の「ほととぎす」の使い方に特徴のあることが分かってくる。すなわち、十一首すべてではないが、鉄幹は、さびしさや孤独、耐えしのぶ心を「ほととぎす」に寄せて詠う。「ほととぎす」は古典和歌でも夏の歌や哀傷歌など、非常に多く詠まれた言葉だが、鉄幹は和歌の語彙をどのように意識したのだろうか。従来の「ほととぎす」にどんな新味を加えたのか、など考え出せば興味深いこと限りない。和歌と近代短歌の結節点に具体的に迫れそうな視点が「語彙」によって開かれるのである。今野氏の覚え書きによれば、「りとむ」十周年記念号(二〇〇二年七月)の際には「みだれ髪語彙」を作成したとのことだ。語彙集の作成は国文学研究では基礎的な手法であると聞くが、現代の短歌研究においても、対象とする歌集が的確であれば新鮮な視点を開く手法となることを語彙集は教えてくれた。

 次に、「短歌人」第三十五回評論・エッセイ賞(課題は「父母を詠う歌」)の水谷澄子氏「くらぐらとたちくる死者を」は、永井陽子と交流のあった筆者が、歌と永井とその父母との連関を分析するエッセイである。永井の歌への洞察と、永井とのエピソード、永井の発言や文章から推察する生活の状況などを丁寧に重ね合わせながら、誰も踏み込んで読むことのできなかったであろう永井の痛みを客観的な筆致でつづる。両親の晩年の子として生まれ、人よりも早く親の老いや死に直面した永井を、「高齢化社会となり、親が死ぬまでの待機時間の長さが、子供の人生を消耗させるようになってしまった」という社会の文脈におき、「母親との相互依存はあっても離反の形をとれなかった」永井の葛藤を浮き彫りにする。「生活の多くを母に譲り渡しながら」、一方で「遠い声に耳を傾ける事の自由さと日常からの離脱を願っていた」と、永井の葛藤を読み取るとき、「熊手もて星をあつむる夢を見き老いより解かれはなやぐ母と」(遺歌集『小さなヴァイオリンが欲しくて』)などの歌は改めて、極北のかなしみと透明感をもって胸を打つ。末尾で水谷氏は「今、我我はようやく『てまり唄』の境涯に近づこうとしている。今なら話せることもあるだろう」と言う。会いたいと思う歌人が死者であることはさびしすぎるけれど、逆に言えば歌人はそうして、死者として読者の中に生きつづけるということを、かなしくも思い知らされた文章だった。

 続いて、「未来」の連載「近世と近代をつなぐもの」から四月号掲載の第十一回、黒木三千代氏の「伴林光平・消えたなまえ―近代が捨てたもの―」も印象に残った。「未来」では、「近世と近代をつなぐもの」と題して二〇〇八年五月号から毎回異なる筆者が評論を寄せている。今年に入ってからのものでは、二月号の大辻隆弘氏「題詠のなかのリアル―税所敦子の歌―」、三月号の加藤治郎氏「天明狂歌と現代―大田南畝を読む―」の二編とも、近代、近世の歌人をとりあげながら現代短歌の問題を背後に鋭く見つめており、読み応えがあった。そして黒木氏の文章では、次の結語が現代短歌を見つめる鋭い視線に思え、また嘆息にも聞こえて印象深かった。

  近代に「我」を獲得して以来、私達は「自己表現」に執してきた。何か大きなもの
 に己を空しくして、神のみ心のままに従うというようなことは、出来もしないし、し
 てはいけないと考えている。「我」がなによりも大切な私達の、慎ましさと敬虔さを
 失って自己表現  が拡大の一途を辿ることは、しかし、苦しいことでもある。

表題にある伴林光平は、幕末・維新前夜の天誅組に加わった尊皇攘夷の志士であり国学者であり歌人だったという。光平には、「榧の実の瓦に落つるおとづれに交るも寒し山雀の声」のような「泰然」として「心の透きとおったような」歌がある。黒木は、光平が逆徒として捕らわれて行くときの「闇夜行く星の光よおのれだにせめては照らせ武士の道」を挙げ、「武士の道」という思想精神の前に「つつましく、己を空しくする」光平の姿を見る。そして、「我」を獲得した近代の歌と比較し、「丈高い、大きなものの前に己を空しくするという慎みを、私達は失ってしまった」と述べる。ここには、「我」にがんじがらめの今の私達とは異なる歌の在り方を歴史の中に見いだし、驚きつつ近・現代短歌を相対化する視線がある。

 以上三つの結社誌上の企画・論考を振り返りながら、今年の短歌の重要なトピックにいくつか思い当たった。①新たな視点からの歌人研究②歌をどう読み継いでいくか③近・現代短歌の相対化である。

 ①については、二〇〇九年は非常に収穫が大きかった。本欄でも取り上げた楠見朋彦著『塚本邦雄の青春』、川野里子著『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』のほか、松村由利子著『与謝野晶子』(中央公論新社、二月刊)と小高賢著『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』(トランスビュー、四月刊)にはぜひ触れておきたい。『与謝野晶子』は、科学への興味、社会評論、一人の母親としての喜びと苦悩、「母性保護論争」、童話作家としての著作、聖書への親しみなどの多面的な晶子の活動から、当時としてはほかに類を見ないそのリベラルな思想を明らかにする。晶子にとっては歌が、文学として閉じたものではなく、現実を生きるための思想に結びつくものであったことを説得力をもって伝える一冊だ。『幻想の重量』もそうだが、歌人の根幹にある哲学におよぶ研究は、その歌人を、短歌の世界のみならず広く社会へ解放することになるだろう。小高氏の『この一身は努めたり』も、上田三四二の短歌、評論、小説、随想などの多面的な著作から上田の本質を明らかにし、またその本質を短歌作品にフィードバックしながら読む。文学に没入する自分を信じ、短歌を基軸にひたすら努めた上田の像が具体的になっていくのだが、ことに、上田の小説と短歌に見られる女性への関心や、上田自身が影響を受けたと公言していた佐藤佐太郎作品との比較など、各論の一つ一つがとても面白く読み応えがある。

 ②の歌をどう読み継いでいくかということについて、二〇〇九年でいえば例えば森岡貞香である。森岡貞香の具体的な研究が行われるのはこれからと思われるが、本欄でも取り上げたシンポジウム「今、読み直す戦後短歌」(花山多佳子、秋山佐和子、今井恵子、西村美佐子、川野里子、佐伯裕子の各氏による)の根底にある「戦後短歌を読み継がねば」という危機感は森岡貞香の死と深く関連しているだろう。また、一月二十四日に二十六歳で亡くなった笹井宏之とその唯一の歌集『ひとさらい』についても読み継ごうという機運が高い。笹井の所属した同人誌「新彗星」では、第三号(五月刊)では追悼特集が組まれているが、振りかえれば「新彗星」は第一号(二〇〇八年五月刊)で『ひとさらい』の批評特集を行い、第二号(二〇〇八年十一月刊)では加藤治郎氏とゲストの穂村弘氏が『ひとさらい』と現代短歌をめぐる対談を行っている。同人誌が、その集団を象徴する歌人を持つことができるというのは稀有なことだ。今後どのように読み継がれていくのか。例えば、同人ではないが高島裕は、「水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って」などの歌を引きながら、

  これらの歌々には、微笑みながら目の前の誰かに語りかけてゐるやうな気配が
 ある。寂しさや悲しみは、作者の思ひとして吐露されることなく、微笑の向う側
 に淡く漂ってゐるばかりである。(中略)このみづみづしい作品世界は、新古今
 的な語の配合技術の確かさに支へられてゐる。(中略)この作品世界を可能にし
 たものは、ここ二十年来試行されてきた、ラディカルな口語歌の蓄積である。歴
 史的な陰翳を失ひ、限りなくフラット化しゆく世界をこそ、短歌の拠るべきリア
 リティーだと考へる若い世代によつて展開されてきた口語歌は、そのフラットな
 世界に拠つたまま、古来の歌の理想を思はせる清澄な作品世界を生むに至つたの
 だ。          (『文机』平成二十一年夏・第二十二号より)

と読む。「新古今的な語の配合技術」を備えた口語歌、という見方に現在の口語短歌の一つの可能性が示されており、このように現在へとフィードバックさせる読み方もみ継ぐことの手法だろう。また、新古今的であるかどうかはさておき、笹井作品のレトリックについて言及した文章はあまり見かけないのでこれは貴重な記述である。

 続いて③の近・現代短歌の相対化ということでは、評論もさりながら、数々の時評にその意気があった。中でも、「現代詩手帖」の「歌の暦」欄で毎月時評を担当している黒瀬珂瀾氏、「短歌研究」二月号から四月号にかけて「短歌時評」を担当した島田幸典氏、「歌壇」五、八、十一月号で時評を担当した森井マスミ氏の文章に注目した。

 黒瀬氏の時評には本欄でも触れたことがあるが、黒瀬氏は、「定型の枠だけが残り、その伝統が生み出した精神性が見失われゆく現在、口語短歌は時代や空間を越え、価値観の異なる読者の心に届くのか、それだけを危惧する」(「現代詩手帖」十月号より)と述べていることからも分かるように、従来の短歌とは価値観を異にする短歌に直面しながら、短歌とは何なのかという根本が揺らいでいることに常に敏感に反応してきた。

 島田氏は、「短歌研究」二月号では「コミュニケーション・名詞化・てにをは」と題して、この時期に総合誌等で見られたレトリック論を手際よく切り出した。三月号では「修辞とリアル」と題した文で、若手の議論の特徴は「メタ短歌的な視点が」一貫して維持されていることだとし、

  他方、それではなぜ短歌定型という窮極のレトリック、非日常的詩型に彼・彼
 女らがなお拠ろうとするのか、その根拠が十分に論じられているようには見えな
 い。この問いは、同時代的感性いかんにかかわらず、書き手の一人ひとりが表現
 に何を求め、その意志を満たすうえでなぜ短歌でなければならないのかという、
 もっと内発的な、個に即した考察を求めるものである。

と問う。四月号では「『自然』と『私』の短歌史」と題して、近現代短歌の「自然」詠を考察する際に、「自然」に対する「歌人のアプローチの変容と多様化を俯瞰するような歴史的感覚」が必要であることを指摘する。どの文章においても、緻密に資料を収集・選択し、現代短歌を俯瞰した上で、現在を突破するための問題提起が成されている。

 森井氏は、「歌壇」十一月号で次のように論じる。「『文学』における『OS』の耐用年数切れ」という今年短歌内外で話題になった問題をめぐって、「たしかに現在、明治四〇年前後のひとびとが、言文一致というかたちで対処したような、ことばの『OS』レベルでの更新期にあたっていることは否めない」と認め、そうはいってもこの議論を「短歌にそのままあてはめることは不毛である」と言う。なぜなら「三十一音という定型を離れて短歌が成立しえないかぎり、短歌における『韻律』とは、歌人が負うべき永遠の『負債』である」からだ。現代の短歌が困難な状況にあることを受け止めつつ短歌の「韻律」という歴史的財産の現在における可能性を示しているのだ。

 黒瀬氏、島田氏、森井氏の三人に共通するのは、いまいちど短歌の定義を問い直そうとしていることだ。今年はあらゆる評論、あらゆる発言、あらゆる短歌作品の底流にそれが感じられた。過去の歌人の作品に対して新たな価値を見いだそうとする動き、近代を起点にして現代短歌の立ち位置を明らかにしようとする動きなどは、すべて、短歌の定義を問い直したいという欲求に基づいている。それが二〇〇九年のうねりである。

 時評に触れたついでにもう一つ、昨年末の本欄「二〇〇八年・雑感」で秋場葉子氏は「結社誌も総合誌も、思い切って毎月の時評をやめてしまったほうがいいのではないだろうか」と述べたが、私は毎月の時評は書かれてほしいと思う。一年間時評を担当しながら、私は折に触れて大辻隆弘氏の短歌時評集『時の基底』を開いた。一九九八年から二〇〇七年に大辻氏の視点から記録された短歌のあらゆる在り方が、二〇〇九年の短歌につながっていると感じることしばしばであった。おそらく、時評では考え抜かれた見解を示すことよりも、恐れずに記録することが大切なのだろう。ある短歌、ある論を目の前にしたときの執筆者の戸惑いでさえ重要な記録となる。その当時の言葉の感覚や考え方の一端を示すからだ。今年は大辻隆弘・吉川宏志著『対峙と対話 週刊短歌時評06~08』(青磁社、八月刊)が刊行された。大辻氏、吉川氏という二つの視点から見つめられた二年間が、二〇一〇年以後の短歌に投げかける問いは少なくないはずだ。

 最後になったが、これまで触れる機会のなかった歌集から歌を挙げておこう。すべての歌集をフォローできているわけではないことを申し訳なく思うが、第一歌集に絞れば、浦河奈々氏の『マトリョーシカ』(短歌研究社、九月刊)と藤島秀憲氏の『二丁目通信』(ながらみ書房、九月刊)に力が漲っており、心打たれた。

  母性とふ地下水脈のみつからぬ身体にまぼろしのリュート抱きしむ
                          『マトリョーシカ』から二首
  抱き合つた双子のやうな被災者とレスキュー隊のひと昇りゆく

  乱暴に、たとえば土管を持ち上げるように庭から父を抱き上ぐ
                           『二丁目通信』から二首
  亡き母の誕生日今日「さび抜きの寿司でもとろう」と父が言い出す

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