短歌時評

川と岩の戦後短歌 / 澤村 斉美

2009年8月号

 七月十二日、シンポジウム「今、読み直す戦後短歌I」が東京で開催された。森岡貞香監修『女性短歌評論年表』の編集に携わった花山多佳子、秋山佐和子、今井恵子、西村美佐子、川野里子、佐伯裕子が講演と討議を行い、終戦後、昭和二十年代に女性歌人がどのような模索を行ったのか検討するものだ。冒頭で花山多佳子は、「前衛以前が忘れ去られようとしている今こそ、私たちは『戦後の尾』をもっている者として勉強しておきたい」と動機を述べた。

 戦後短歌を読む企画では、同人誌『新彗星』第3号(五月刊)でも「戦後アララギを読む」というシリーズが始まった。第一回は、柴生田稔をめぐって加藤治郎と大辻隆弘が対談を行っている。大辻の評論「傍観という卑怯―柴生田稔の近藤芳美批判」(『短歌往来』五月号掲載)も併せて読んだのだが、近藤芳美らアララギの歌人との関係をもとに、柴生田の苦悩・戦争詠へのけじめのつけ方・戦後の歌への態度が明らかにされていく好企画だった。現在もよく語られる歌の「リアル」の問題を、戦後アララギへと縦方向にさかのぼって洗い直してみるという目論みであるようだ。同じ「アララギ」をルーツとする結社に所属する者として楽しみに見ていきたい。戦後アララギ史について、紀郭独自の流れ、いわば「川」を最後に見出すことができれば幸いだ。

 さて一方で、「今、読み直す戦後短歌I」は、戦後の前衛以前の女性歌人の動きを横断的に探究するものだった。その方法から見えてくるのは、戦後という「岩」である。

 たとえば、今井恵子は生方たつゑを取り上げる。戦前に刊行された第一歌集『山花集』、第二歌集『雪明』では、写実の方法に忠実に生活実感が歌われているという(「かけひ水の物濯ぐほどは溜りゐて水底すめり白飯の見ゆ」など)。ところが、戦後の第三歌集以降は、概念語、抽象語が増えて歌の主観性・抽象性が強まっており(「傷舐めてゐるけだものも濡れてをり時雨してかの石もぬれゐる」など)、これは生方が(短歌上の)時代の要請に応えたためだという。今井は、生方の忠実な写実詠がもっていた内実のようなものが、この変化の過程で失われたのではないかと述べ、第三歌集以降をあまり評価していない。この後今井の論は、生方のように今ではあまり顧みられない歌人や歌を再評価する新しい評価軸が必要だと主張する方向へ向かったが、私はそれとは別の論点をこそ聞きたく思う。つまり、生方を変えたという「時代の要請」とは何だったのか。それこそが生方が取り組んだ戦後という「岩」ではないだろうか。ぜひ明らかにしてほしいと思う。

 川野里子は、シンポジウムに先立って『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店)を刊行しており、葛原が取り組んだ戦後については、著書の第一部から第四部においてすでに論じられている。今回のシンポジウムではさらに、斎藤茂吉の「虚空小吟」(昭和四年制作、『たかはら』所収)と葛原の「地上・天空」(昭和四十四年『朱霊』所収)を比較し、葛原が茂吉の作品を意識しながらやり直していることを指摘した。その上で、(文学上の)戦後という体験を経て、葛原の中ではそれまでの言葉の感覚や空間認識といった「発語の土台となるもの」が変容せざるを得なかったと論じる。発語の土台の変容を経た上で、では新たな感覚や認識をどのように表現に定着させるのか。それが葛原のみならず戦後短歌の直面した問題だった、というのが論旨だ。戦後短歌にまで敷衍するのは性急だとしても、葛原における「岩」の在り処はかなり具体的に示されているように思った。今後のシンポジウムでさらに学びたいと思う。

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