短歌時評

捨てたものと拾ったもの、そしてなぜかずっと持っているもの / 澤村 斉美

2009年5月号

 短歌の作り手も読み手も、新しい歌を模索している時だと思う。その新しさの内実や形ははっきりとしていない。方向性すらまだ見えにくい。が、あらゆる読み手が、その歌の良さを「あの歌は良い」「圧倒された」と言って共有できるような、そんな歌が待ち望まれているのではないか。

 ただ、読み手が変わらなければそんな歌の登場はないかもしれない。自分の考え方や作り方とは違うけれどあの歌の良さは分かる、その新鮮さに打たれる、という、他者との出会いを喜ぶような読み方が力を失っているこの頃だ。例えば若手の歌が話題になり、その歌をめぐって支持者と分からないまま判断を保留する者とが完全にすれ違うという風景。あるいは、朝日新聞の「短歌時評」(三月三十日付)に穂村弘が書いていたことだが、従来の短歌の表現スタイルの「耐用期限」が問題になること。穂村の危機感は理解できるが、「耐用期限が過ぎた」としていろいろな歌を顧みなくなることで得られなくなる驚きや表現の不思議もあるだろう。「耐用期限」という考え方自体が、表現の可能性を狭めていないだろうか。

 角川「短歌」三月号の「大特集 春日井建」中の荻原裕幸の評論「『未青年』の書かれた場所」は、表現の可能性を広げており興味深い。『未青年』の例えば

  われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり

では、悪徳への過剰な憧憬が、「描写上のリアリティや実感を強く求めてゆかない文体」によって、純度の高い観念として取り出されているという。この「観念的な表現スタイル」は現在では説得力を持たないが、逆に、現在の短歌の文体が「リアリティや実感を通して共有される傾向の強い」ものであることを荻原は批判する。現在の歌が「個人での体験が可能な、つまり共感することが可能な領分」で作られる傾向があること、そのように短歌の領分が固定化してしまうことについての危惧を示すのだ。『未青年』の文体が、荻原の分析を経て、現在の短歌の文体に刺激を与えていることが新鮮だ。

 楠見朋彦『塚本邦雄の青春』(ウェッジ文庫、二〇〇九年二月刊)も、塚本の歌の新たな面を見せてくれる。この本自体は表現上の問題を分析するものではないが、例えば『水葬物語』以前の作品を、その当時の塚本の生活を資料から書き起こす文章とともに読むと驚く。

  家具調度いろ寂びそめてつつましき母となりたる姉と語らふ 『木槿』一九四三年
  故里は夜霧にうるむ湖明(うみあか)り冬菜洗ひのうたながれくる 同 一九四四年

 いずれも呉市で発行されていた歌誌に投稿されたものだ。姉との語らいにも、故里の風土性にも、「しみじみ」とした情感が根づいていて良い歌だ。塚本は、このような完成度の高い歌を作りながら、その後何を捨て、何を拾って、新しく何を取り入れて『水葬物語』以後の塚本になっていったのか。少なくともこれらの歌に見える「しみじみ」は捨てられている。現在の歌の読み手は、この「しみじみ」をどう受け止めるだろう。

 現在の短歌が、これまでの短歌の何を捨て、あるいは何を拾ってきたのかということを、明確にすることによって得られる表現の可能性は大きい。これまでの短歌を、むやみに「従来の短歌」と一括りにして捨て去れば歌が貧困に陥るだろうことは危ぶまれるべきだ。一方で、過去に区切りをつけて新しいものを希求する表現志向が、短歌という詩型を面白くすることも事実。私たちがなぜかずっと持っている短歌という詩型は、過去にも未来にも開かれていなければならない。

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