普通の言葉が比喩であること / 竹内 亮
2026年7月号
六月初旬に放送された第二十七回NHK全国短歌大会で比喩が話題になった時のことについて書きたい。
大会は三月末にNHKホールで開催され、わたしは観覧に行き二階席後方で聴いていた。そのなかで選評の司会をしていた松村正直は
「どういう比喩が効果を発揮してどういう比喩だとうまくいかないのか」と小池光に聞き、小池は「比喩はものすごく大事で、短歌の核心といってもいいと思うんですけれども、普通『ような』とか『ごとき』っていうのが比喩だっていうのはよく言われるけれども、比喩ってそれに限らないで、全ての言葉が比喩になるというか、全ての言葉が比喩であることを避けられないというか、比喩の歌でなくても比喩の歌になっちゃうみたいなところがあって、そんな簡単な話ではないんだけれど」と述べ、例として「ライオン」や「虎」のような語も比喩であると話した。
放送された部分に、わたしが二階席で取ったメモによるものを補足しているので若干正確でないかもしれないが、趣旨としては、松村が技法的な比喩の効果について質問したのに対して、小池は、全ての言葉自体が比喩であると述べたのである。この日、大会の後に茶話会があり、わたしは勇気を出して小池に「先ほどの比喩の話をもう少し教えていただけないでしょうか」と話しかけ、小池は少し補足して「象も比喩である」と教えてくれた。
松村が述べていたのは、
専用のサンダルで行く居酒屋の迷路のような卓までの道
浪江まき子
カンバスに水面描かれてあるような鏡を覗いたら青い顔
工藤 吹
のようないわゆる比喩の効果のことだ(歌はどちらも「短歌研究」二〇二六年五+六月号から引き、以下で引く歌もそうである)。
これに対して、小池は、松村の質問とはやや異なる、そして自身がいうようにやや簡単ではないことを述べている。まず言えるのは、ある景の描写が別の出来事や心情の比喩になっているようなものだろう。
春夕べ電車に乗ればビルの間を通り過ぐたび落日に会う
中川佐和子
の歌は、描写の歌と読めるが、
ITバブル、AIバブル懸念まで報道キャスター切り込んでゆく
同
の歌と並ぶ一連のなかでは、「落日」は日本の経済力の衰退をいうように読める。
しかし、小池が挙げた「ライオン」「虎」そして「象」の例からは、より進んで、
紀元節ですからと言ひて隣人がくれたる「亀田のまがりせんべい」
小池 光
うしろから近づいてくる靴音は女性の靴音か 抜かれてしまふ
同
の「隣人」や「靴音」のようなごく普通の言葉さえも「比喩であることを避けられない」というのではないだろうか。ますます簡単な話ではなくなってきたけれど。
言葉は、無限にある多様な現実を限られた有限の単語で述べていくので、常に現実と一対一には対応しない。たとえば、言語学者は、「かかる」という言葉が、
・月が山にかかる。
・列車が鉄橋にかかる。
・出発日が正月休みにかかる。
・病気にかかる。
・医者にかかる。
・お目にかかる。
など多種多様なものに適用できることを指摘する(これらはジョージ・レイコフ『認知意味論』の解説で池上嘉彦の挙げる例)。
ライオン、虎、象が比喩であると小池が述べるのは、「落日」の歌を超えて「かかる」のようなものを述べているのだろう。小池が比喩について尋ねられた時に、全ての普通の言葉が比喩であると述べていることの短歌における意味を、もうすこし考えたい。