青蟬通信

他者に触れて自己が変わる読み / 吉川 宏志

2026年7月号

 昨年の十一月に出た伊藤氏貴『読む技法』(中公新書)がとても面白く、あちこちで薦めている。「読む」ことの本質を、与謝野鉄幹の詩や芥川龍之介の『蜜柑』など、具体的な作品を挙げながら論じた一冊である。
 しばしば「短歌はどのように読めばいいのか」が話題になる。この本は、短歌については触れていないが、基本的な考え方は大変参考になる。
「好きなように読めばいいという浅薄な多様性がかえって他者の読みを排除する分断を生んでいる現在の世界で、書き手の意図に立ち返り、誰もが納得できる妥当な着地点を見出すための理論は重要だと言える。」
 短歌の世界でも「自分が好きなように読めばいい」という考え方はかなり広く受け入れられている。しかしそれは、「自分は好きなように読むから、他の人も勝手に読めばいい」という態度につながりやすい。そこから脱け出すためには、作者が何を歌おうとしているかを深く捉えようとする方向性が必要である。そして、その読み方には、多くの人が「なるほど」と思うような説得力(論理性)が大切になるわけである。
  リユクルゴスの回帰くわいきたたふるこころにもなりず吾われは子にむかひ居り
                              斎藤茂吉『寒雲』
 難解な語が用いられているが、今はスマホで簡単に検索できる。リュクルゴスは古代スパルタの政治家で、軍国教育を推進した人物として知られている(いわゆるスパルタ教育)。この歌が作られたのは一九三七年で、日本でも復古的な軍国主義が学校で教えられるようになった時期であった。茂吉は、そのような教育が行われることに賛同できず、子を心配しつつ見守っていたのである。
 なぜこんな分かりにくい表現をしたのか。権力をはっきりと批判できない時代になっていたからだろう。茂吉は積極的に戦争協力した歌人だが、こんな側面もあったのだ。
 「書き手の意図」を知るには、時代背景や作者の人生を調べることも必要になる。全ての歌について行うのは無理だが、自分が心惹かれた歌や、関心を抱いた歌は、なぜこんな歌が作られたのか、その現場をリアルに想像することが大事だろう。作者に接近することで、歌はさらに強い生命力を帯びて見えてくるはずだ。
「自身と異なる考えに出会ったときに、自分の常識で他者を裁断するのではなく、むしろ相手のそれによって自らを省み、自分の常識を脱ぎ捨てることで新たな自己を構築する営みであった。」 (『読む技法』)
 伊藤氏は、自分とは異なる他者の言葉に触れることによって、新しい自己が生じることを、読むという行為の本質だと述べる(このことは、哲学者のガダマーが「地平の融合」という語を用いて論じているという)。
 よく歌会の場で、自分には理解できない歌を、厳しく非難してしまうことがある。もちろん、明らかな失敗作や、認識があまりにもおかしい歌の場合もある。それを批判するのは自然なことだ。
 だが、もしかしたら自分の常識が邪魔をして、他者の言葉が読めていないのかもしれない。深く読み込んで、その歌の良さを発見できたら、自分は少しだけ成長したことになる。
  満月は明日と思ひて仰ぎけり祈りは祈るものを変へゆく
                         大口玲子『スルスムコルダ』
 少し話が逸れるが、祈りもおそらく同じなのだろう。聖書の言葉を祈りの場で深く読むことにより、自己の存在が変化していくのである。
 作品を読んで他者に出会うには、自分とは異なる表現を感じ取ることが大事なのではないか。田村穂隆の新しい歌集『霧に貌』を読んだが、
  眼球がほどけて紐になる きみの眼とわたしの眼をきつく結んだ
などの歌に驚かされた。歌の意味は分かるのだが、じつに異様な感覚で、私には全く思いつくことができない発想である。そこになまなましい他者性を感じたのである。
 ただ、この歌を読んだ後には、私の中にある眼球あるいは視覚のイメージが、少しだけ更新された気がする。他者に触れて「新たな自己を構築する」とは、おそらくこうした体験を指している。

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