鰓の息 / 花山多佳子
2026年6月号
「歌壇」5月号で、川野里子の対談集『短歌って何と訊いてみた』を巡っての座談会が掲載されていて面白く読んだ。メンバーは川野里子、吉川宏志、内山晶太、山崎聡子の四人。初めに吉川宏志が韻律、リズムの問題から口火を切っている。対談集での哲学者の納富信留の発言を受けて「政治がリズムを利用するというのは本当にそうで(略)リズムによって人を動かしてしまうことの怖さを指摘されているところにはとても納得しました」「でもやはり、短歌はどうしても韻律を用いざるを得ない」「政治はリズムで人々を引きずっていこうとするのですが、それに対抗する側も情緒的なものを訴えざるを得ないことがある、そんなジレンマを感じることは多いです」というような吉川の発言から、短歌の韻律に溺れる危惧や抵抗感、韻律を使いこなすこと、などの論議が交わされる。
第二芸術論で「奴隷の韻律」と言われたがゆえの前衛短歌の韻律の革新の問題が、いまの状況ゆえの論議になっている。そういう時代になっているのだと感じさせられる。その中で、笹井宏之賞作品に見られる壊れた韻律の登場は必然性がある(山崎聡子)、という発言や、その一方で上川涼子、小原奈実、岩岡詩帆のような精緻な「てにをは」を尽くした歌が登場していて両極のある面白さがある(川野里子)という発言もあった。確かにそうで、最近は文語、旧かなの第一歌集がかなり目立ってきた。どちらかというと、口語短歌から文語へという傾向にあるのではないかとも思う。その作風は日常の「私」から形而上的になってきている。
倚る壁のしづけさに眼をつむるとき霧なるわれを壁は堰きゐる
こゑにては筋に勝てねば唇に蜂とまりゐるごとき黙秘を
いきものよ声よりさきに耳をもてかたみに鰓の息を聴きしか
小原奈実『声影記』
言葉も韻律も自在ではない。エモーショナルな韻律で人を巻き込むところがなく抑制的で明晰だ。「こゑにては」「声よりさきに」と押して言いつつの非力感。息だけをかたみに聴くいきもの。原初への遡及であると同時に現在でもある。
息を吸ひ息だけが出るしづけさよことばは人の喉より大き
雨に顫ひそれから雨を受け入るるみづはかすかに魚を撓めつ
上川涼子『水と自由』
こんなにも途方に暮れてわたしたち黙ってるのに色がついてる
でもひとは死ぬまで呼吸するのだからリフレインとは安易な抒情
穂崎円『オメラスへ行く』
同じようなモチーフが現れていることは偶然ではないだろう。言葉や韻律の魔術は信じられていない。内山晶太の、短歌は「型」であるというところの作用について考えさせられるが紙面が尽きた。