短歌の善き生と憲法 / 竹内 亮
2026年6月号
二〇〇四年、三十歳の時に法科大学院で憲法の授業を受けた。担当は長谷部恭男教授。後の二〇一五年に国会に参考人として呼ばれた際、集団的自衛権の行使について意見を求められて憲法違反と考えると述べ、その後の議論のきっかけをつくった。いまはメディアで見ることが増えたが、授業を受けた当時は、自身の考えを話すことの少ない、抑制的な授業をする教員と学生から見られていた。
ある日、長谷部教授は「エホバの証人輸血拒否事件」という最高裁判例を取り上げた。エホバの証人の信徒である患者が、悪性の血管腫を摘出する手術を受けることになった。患者は宗教上の信念から、いかなる場合であっても輸血を受けることを拒否するという固い意思を有していて、そのことを医師に伝えていたが、手術をした東京大学医科学研究所附属病院は、患者の意思を尊重しできる限り輸血はしないが、輸血以外に救命手段がないときは、患者の諾否にかかわらず輸血するという方針で手術に臨み、そのことを患者に説明していなかった。そして、実際に出血が多かったことから患者に説明なく輸血をしたという事件である(手術は成功した)。
患者が説明なく輸血をされたことについて病院(国立病院なので国)と医師らを訴えたところ、最高裁は、病院(国)と医師らの責任を認めた。
この判例について、授業に出ていた同級生のHさんが「輸血をしなかったら死んでしまったのだから輸血は仕方がなかったのではないか」と質問した。
これに対して、長谷部教授は「天国に行けなくなってしまうんですよ」とそれまで見せたことのない強い口調で答えた。それぞれの個人がどのような人生を「善き生」とするかは比較不能(公約数を見出せないという意味の共約不可能ともいう)であるから、私的領域では各人が善き生を決定し(たとえば、輸血の拒否)、公正、正義により規律される公的領域にはそのような善き生を持ち込むことを禁止する(たとえば、政教分離)という考え方が憲法の基本的な考え方であると説明したのである。憲法は公私を切り分ける仕組みである。
短歌は、私的領域における各人の善き生の側に属する。そうすると、各人の善き生に関係するそれぞれの短歌は、原理的に比較可能でない。
短歌を作り、読み合うというわたしたちの行為は、比較不能な各人の善き生を、理解し合おうという困難な試みである。
川野芽生『AはアセクシュアルのA──「恋愛」から遠く離れて』(二〇二五、リトル・モア)を読んだ。恋愛としても、また性的にも他者に惹かれないというアロマンティック、アセクシュアルの川野の立場を述べるエッセイである。
交配を望まざりしに花といふつめたき顔を吊るす蘭たち
産むことのなき躯より血を流し見下ろすはつなつの船着き場
のような川野『星の嵌め殺し』(河出書房新社、二〇二四)の歌と共通する思想を説明しているが、この非恋愛の思想は、川野にとって「善き生」といえるだろうか。それとも公的領域における言説だろうか。
これらの川野の歌は広義の社会詠ということも可能であるが、このような社会詠に接するとき、それが比較不能な個人にとっての善き生を問題とする私的領域の歌か、比較可能な公正、正義を問題とする公的領域の歌かはどちらかに決まらないことがある。社会詠がときに成立しにくいところがあるのは、公的領域に留まれば切実さが生ぜず、私的領域に重心があれば、社会性が減じられるからであろう。川野の歌は双方を併せ持つことで社会詠として成立しているようにおもう。