青蟬通信

〈私〉の疑わしさについて / 吉川 宏志

2026年6月号

 最近刊行された中屋敷均『生命とは何か』(講談社現代新書)は、私のような科学に詳しくない者には難しい記述も多いのだが、初めに書かれている事例に衝撃を受けた。複雑な背景があるのだが、簡単にまとめると次のような感じだ。
 アメリカのイエローストーン国立公園で生息しているオオカミの中には、トキソプラズマ原虫に感染しているものがある。この原虫に寄生されても、ふつうは病気にならない。
 ところが、この原虫が体内にいるオオカミは、群れのリーダーになる確率が非常に高くなる。四十六倍以上だというから驚きである。なぜそのようなことが起きるのか。
 この原虫は、ピューマの体内で生殖を行うという性質を持っている。オオカミ以外の哺乳動物(ネズミなど)にも寄生するのだが、その動物がピューマに食われることで、原虫は繁殖するのである。そのためにはピューマを恐れずに近づいていく、無鉄砲な性格であることが望ましい。襲われて餌になりやすいからだ。
 つまり、この原虫に寄生されると、勇敢な性格に変えられ、結果的に群れのリーダーに適任になるらしい。詳細は省くが、男性ホルモンが増えたりするようだ。人間が感染した場合も、失敗を恐れる気持ちが低くなる、事故に遭いやすくなる、という報告があるそうだ。
 他にも、腸内細菌によって性格が変わるという話も紹介されており、しだいに不気味になってくる。私たちは、自分の人生を自分で決めているように思っているが、じつは寄生虫みたいなものに左右されているかもしれないのである。
 「考えてゆくほどに、『自己』と『他者』、私とあなたの境界が、少しずつ曖昧になっていき、どこまでが私で、どこまでがあなたなのか、分からなくなってしまう。」
 この本の末尾近くに書かれた一行だが、強い説得力で迫ってくる。
 ここで短歌の話に移したい。一九七〇年代後半くらいから、短歌では〈私〉への疑い、あるいは〈私〉の解体が論議されるようになる。
  わたくし〉の上に斜めにすぢ引きていざ還りなむ水のむかうへ
                  岡井隆『マニエリスムの旅』(一九八〇年)
 この歌などが典型的だが、確固とした自分などは無い(斜線を引く)という気分が捉えられている。戦前・戦中は自由に生きられなかったが、戦後の社会が安定し、ようやく自分で選んだ人生を送れるようになったかに見えた。しかし、ほんとうに〈私〉の思い通りに生きているのか、という疑問が生じてきたのだろう。何か別のものに操られているような感覚もあったのではないか。
 前述した研究は、科学的にも〈私〉や自己というものが疑わしいことを裏付けていると言えよう。
 だが、確固たる〈私〉が存在しないのは事実だとしても、トランプ氏のように、その場その場の都合によって態度がころころ変わるような人間は、信用することができない。生物的には、そのときの気分で言動が変化するのは当然なのかもしれないが、人間的にはやはり一貫性が大切になってくる。自分の言葉を守り、信念を安易に変えないことが、人の心を打つのも事実であろう。
 〈私〉が疑わしいことは分かっている。しかし幻想であっても、それを貫くことで、強靭な〈私〉のようなものを創り出すことはできる。〈私〉とは、自然ではなく、人工的なのである。だが、創作されたものだからこそ、オリジナリティーがあり、感銘を与えるのではないだろうか。
  いつまでは自分であるか癌巣の脳への転移十数を数ふ
                           奥田亡羊『ぼろんじ』
 脳が侵され、いつまで自分の意識を保てるのか、おびえている。だがそれでも、その瞬間にはまざまざと実在していると感じた「自分」を歌っている。「いつまでは」の「は」が痛切に響く。この歌が作られたことで、亡くなった奥田のリアルな心の動きは、この世に残されたように思う。
 他の何かに操られるほど、〈私〉は脆い。だが、そんな弱々しいものに、生き生きとした形を与えてくれるのが、歌の言葉であると言えそうだ。

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