桜色のネクタイ / 竹内 亮
2026年5月号
三月後半にタイに行った。チケットの安かった木曜日の深夜便で日本を発ち、金曜日の早朝にバンコクに着いた。わたしは弁護士をしていて、この旅行は仕事の交流・視察行事だった。同業者二十人で、金曜日は午前中にタイの労働省を訪問し、午後はバンコクの労働裁判所を見学させてもらった。タイの言葉は飛行機の中で「ありがとうございます」の言い方を覚えただけだったけれど、歓待してくれる先方へ敬意を表そうと、自分のもっているなかで一番よい薄い桜色のネクタイをしていった。
タイに着いて移動するバスのなかで、バンコクで仕事をしている日本の同業者で、この視察旅行のボスであるTさんが、
「最初に大事なことを言っておきます。タイのトイレは本当によく詰まります。ホテル以外では、新しい建物でもトイレットペーパーは便器に流さず、横にあるゴミ箱に入れるようにしてください」
と言った。わたしはこの旅行の間に、すこし古い労働裁判所のトイレと翌日に行ったバンコクの中心部にあるセントラルワールドというとてもきれいなショッピングセンターのトイレで、Tさんに言われたとおりトイレットペーパーを便器の横のゴミ箱に捨てた。すこし不便なようだけれど、バンコクではそれがむしろ魅力的なようにもおもえた。
旅行詠は、見た風景を詳細に記録する観光案内みたいな歌を作らず、その風景を見た自分の気持ちがどうだったのかを残すのがよい、と永田和宏は知花くららとの対談の書籍『あなたと短歌』で述べている。旅行詠のポイントは珍しいものを見ること自体にあるのではなく、日常のルーティンを離れて珍しいことを見ることによって、作者の心が動くことにあるのだろうとおもう。タイのトイレでトイレットペーパーを流さない経験をしたことはそれ自体が歌になりそうだけれど、実はポイントはその感覚にあって、その感覚があれば、帰国後でも歌が作れるのではないかとおもう。
旅行には、短歌との関係でもうひとつ機能がある。読者として歌で読んだものを後から実際に見る場合の心の動きである。
去年、広島から東京に向かう飛行機で上空から琵琶湖を見たとき、河野裕子の「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」を思い浮かべたけれど、これはわたしだけではないとおもう。このように歌で読んだものを実際に体験するときの感覚は、歌によって現実が複雑に味わえるようになるのか、あるいは現実の琵琶湖を見ることで河野裕子の歌がより深く読めるようになるのか、どちらだろうか。
東浩紀に『観光客の哲学』という書籍がある。日本ではいまかつてほど観光がはやっていないけれど、世界的には観光の世紀であるという。東は、他者との関わりが必ずしも強くならず、消費に過ぎないともいえる観光をグローバリズム(世界の均質化)への「抵抗」として積極的に考え直そうとしている。
塔の鈴木智子は、イランに短期留学をしたことがある。鈴木が作った私家版の『イラン、夏』という小冊子には、イランのことを詠んだ歌が収められている。
アザーンが聴こえる世界はひとつだけ遠く遠くの父母と地続き
二百ヶ国カバーしている保険屋がカバーしてない辺境へ行く
広すぎる世界にわたし頷いて冷水で手を洗い続けた
めくるめくバザールを行くここからはひろいひろい世界、見えたよ
鈴木の歌は、かつてやや過剰な表現が目立つようにわたしにはおもえたが、イランという題材に接したとき、その過剰さはむしろ説得力を持つようにおもえる。