短歌時評

書店という鉱山 / 竹内 亮

2026年4月号

 新聞に大学生の書籍購入費の記事が出ていた。大学生協が二〇二五年に調査した大学生の一か月の書籍費の平均は、自宅生で九七〇円、下宿生で九九〇円だという。書籍費にはマンガ、雑誌と電子書籍も含まれていて、一か月の平均が千円を下回ったのは比較できる一九七〇年以降で初めて。書籍費のピークは、自宅生が一九八三年で一か月の平均が四二八〇円、下宿生は一九八〇年で五三五〇円と出ていた。
 当時の歌集の定価は、一九七〇年に出版された佐藤佐太郎『形影』が一三〇〇円、葛原妙子『朱霊』は二〇〇〇円、一九八〇年に出版された河野裕子『桜森』が二五〇〇円、馬場あき子『雪鬼華麗』は二三〇〇円だった。
 わたしは、一年浪人して一九九三年に大学に入学した。裕福ではなかったけれど、本を買うのが好きで、学生の間、書籍部と呼ばれていた大学生協の書店で一か月に一、二万円分くらいの本を買った。大学生協は定価から十%割引きで本が買え、さらに当時、金券ショップでは五百円の図書券が五、六%引きで売っていて、併せると十五%引きくらいになった。わたしは安い図書券を見つけると買いだめをして、財布に入っているのは現金より図書券が多いこともあった。そんな風に本をたくさん買ったけれど、読むのが遅かったし、根気も続かないので、それほどは読めなかった。途中で挫折したものも含めて、読み通していない本の方が多かったとおもう。
 昨年末から読みたい歌集、歌書の出版が続いている。前回紹介した小島なお『卵降る』に続いて、齋藤芳生『牡丹と刺繍』、澤村斉美『竜の眠つてゐた跡』、そして、吉川宏志『一九七〇年代短歌史』が出た。
 定価をみると『卵降る』は二二〇〇円、『牡丹……』は二九七〇円、『竜の……』と『一九七〇年代……』は三三〇〇円である。一九七〇、八〇年代とあまり変わっていなくて、物価の上昇を考えるとすこし下がっているようにもおもえるけれど、でも、十%引きで買ったとしても、現在の大学生の平均的な書籍費の二、三か月分である。読み通せない本を買う余裕はないようにおもえる。
 でも、わたしは思うのだけれど、結果的に読み通せない本を買うことには、意味があるのではないだろうか。一か月に十冊前後の本を買って、そのうち数冊は読み通し、数冊は途中で挫折し、一、二冊は「積ん読」になっていくとする。こういう読書のサイクルと、数か月に一冊必ず読む本を買う場合の読み方は違うような気がする。
 たくさんの本を買うことは、鉱山から鉄鉱石の含まれる土を採掘するのに似ている。その土の中から読書によって鉄が精錬されてゆく。この場合に精錬される鉄は、読む人によって少しずつ違うから、最初から精錬された鉄を買うことができないし、「積ん読」は一見ムダなようだけれど、何年も本棚に置かれていて、後に初めて精錬される場合がある。
 同じ比喩だけれど、一冊の歌集も鉱山的だとおもう。歌集を読む過程で、読者の中で一首一首の歌が精錬されていく。
  にんげんはとことん場違いだとおもうマスクはずして夏野をゆけば
  仏前にりんりんを鳴らして掌を合わす蟬声がすこし止んだ、と思う
                          齋藤芳生『牡丹と刺繍』
  海に向くフェンスに指をかけながら私の静かな三半規管
  本の数減らすにはよき晴れの日に棚から箱へ移す哲学
                       澤村斉美『竜の眠つてゐた跡』

 最近、わたしのなかで精錬された歌だ。歌集を読むことはたくさんの歌集、そして、歌集のなかのたくさんの歌という二重の鉱山から自分が必要とする、自分だけの鉄を精錬する行為であるとおもう。

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