牧水の知られざる歌 / 吉川 宏志
2026年4月号
早春のころ、群馬県のみなかみ町で行われた第九回若山牧水みなかみ紀行短歌大会に参加した。牧水は、このあたりの渓谷や温泉が好きで、二度も長い旅をしている。利根川の水源にあたる地を足で踏みしめ、『みなかみ紀行』などの旅行記を書き、歌を詠んだ。地元の熱心な牧水愛好家によって、この大会は運営されている。
今回私は、伊藤一彦さん、小島なおさんとともに「なお新しい牧水の歌」というテーマで語り合った。昨年、角川書店から『若山牧水全歌集』(伊藤一彦選)が刊行されたので、これまであまり論じられなかった歌について話してみましょう、ということになったのである。私が取り上げた五首について、ここに記しておきたい。
大河よ無限に走れ秋の日の照る国ばらを海避けて行け
『海の声』明治四十一年
海にたどりついたら、川は終わってしまう。だから、海を避けて、いつまでも流れてほしい、という奇抜な発想に驚かされる。スケールが大きく、以前から好きな歌である。
牧水は、のちに結句を「海に入るなかれ」と改作してしまう。「海避けて行け」はあまりにも非現実的だと考えたのだろうか。でも、元の歌のほうが大胆で、優れていると思う。
何といふながき髪ぞや立ちてみよそちら向きみよ戸に倚りてみよ
歌集未収録歌篇・明治四十年
『若山牧水全歌集』には、彼が歌集に入れなかった歌も収録されている。その中には、なぜ棄ててしまったのだろうと、不思議に思うような歌も含まれている。黒髪の美しい恋人に、絵のモデルのようにさまざまなポーズをさせている。「何といふながき髪ぞや/立ちてみよ/そちら向きみよ/戸に倚りてみよ」と四つに切れる文体が珍しい。句切れが多いと分裂しやすいものだが、言葉に勢いがあって、恋情の強さが迫ってくる。
よく言われることだが、牧水はこの女性(園田小枝子)の内面をほとんど理解できていなかった。そのため後に、悲惨な失恋を迎えることになる。この歌は、女性を絵のような幻想として見ていた証左と言えるかもしれない。
をさなき日峯
歌集未収録歌篇・明治四十年
牧水の故郷(現・宮崎県日向市坪谷)は山の深いところにあるが、峰に登ると海が見えたらしい。幼いころ、母に海を教えてもらったという記憶が美しい。「海てふもの」という表現にも奥行きがあり、このときにはまだ、ほんとうの海を知らなかったのだ、という思いが込められている。
われ生
歌集未収録歌篇・明治四十一年
自分にもし前世があったなら、日光に似ているだろう、という歌。リズムが柔らかく、たゆたっている感じで、不思議な印象を受ける。自分が存在する前の、明るい世界を思い浮かべている。
牧水も、自己への不安をかかえていたわけだが、闇の方向へは行かず、どこか透明感を保っている。そこが他の歌人とは異なるところであろう。「われ」とは虚しいけれど、それゆえに光に近いものなのだ。そんな感覚が牧水にはあった。
ほうけたるこころにわれの気づく時ただ渓川の寒き瀬きこゆ
『くろ土』大正十年
みなかみ町にある谷川温泉のあたりで詠まれた歌である。自分がぼんやりとしていたことに、ふと気づく。それはよく経験することだが、牧水以前の歌には、あまり詠まれていないように思われる。フロイトの無意識に関する研究が日本でよく知られるようになったのは、大正時代だったらしい。ぼんやりしている「われ」と、意識のはっきりしている「われ」。どちらがほんとうの「われ」なのか。深く考えると、自己が揺らいでしまうような問いである。なにげない歌に見えるが、牧水は、そうした「われ」の奇妙さを捉えようとしていた。
牧水は、恋と酒と旅の歌人というイメージが強いが、思索的・哲学的な一面もある。私はそこにもっと光を当てていきたいのである。