八角堂便り

歌人夫婦の好きな歌人 / 前田 康子

2024年7月号

 歌人協会の公開講座で七月に真鍋美恵子の『玻璃』について話すことになり、いろいろと資料にあたっている。真鍋美恵子は明治三九年岐阜県生まれで、一九歳の頃「心の花」に入り歌を始めた。
  疾走し過ぎたる青き自動車くるまありて硬直したるごとき夜の道
                            『玻璃』
  八月のまひる音なきときありて瀑布のごとくかがやく階段
                           『羊歯は萌えゐん』

といったような詠みぶりで硬質で独特の世界感を持つ。河野裕子がとても好きだった歌人のひとりで『私の会った人びと』の中に、一七歳の頃に真鍋の歌に出会い真似て作歌したと書かれている。あまりに「真鍋さん、真鍋さん」というから永田和宏も読み始めて好きになったという。『真鍋美恵子全歌集』には「ファンである。」と始まる明晰な永田の解説が書かれている。こんな風に歌人夫婦が好きになる特別な(二人にとって)歌人がいるなあと思う。
 我が家では上野久雄、柏崎驍二が思い当たる。上野久雄は夫が最初に好きになり、特に『夕鮎』の大ファンだった。
  吾が部屋より子の部屋に這うコードあり或る朝音もなく動き出づ
といった歌をあげ、吉川は若くして自分が父になり家庭を持った時にどのように家族を詠んでいけばいいか、上野の歌から学んだという。上野の家庭の歌はどちらかといえば破滅的で、私小説的だった。こんな夫だったら大変だと思いつつ
  言いかけて言わざることは夕べよりあしたに多く妻は坐れる
                           『夕鮎』
  或る秋は薄暮の川に妻立ちて吾が血におえる水捨てにけり
                             同

といった妻の歌に私は惹かれる。一首目の薄刃に触れるような妻の存在。二首目の夫の命を握っているような行動。ひりひりとした夫婦の本質的な哀しみをここまで詠んだ歌人は他にはないように思う。
 また柏崎驍二はどちらともなくいいね、と言って読み始めた歌人である。
  アパートの二階に人の帰りきて灯すとき窓の氷柱つららもともる
                            『四十雀日記』
  夜の雪に倒れし石蕗つはが曇日のいちにちかけて花もたげゆく
                           『月白』

 柏崎は盛岡に暮らし季節や日常を柔らかく詠み続け、特に自然詠には冬の厳しさが多く詠まれている。突飛な表現を避け静謐な作品は作歌に迷った時に開き読むことが多い。
  流されて家なき人も弔ひに来りて旧の住所を書けり
                         『北窓集』

といった東日本大震災の時の歌も忘れがたい。
 大体の歌集が一冊しかないので好きな歌には夫が上に私が下に〇をしている。それは歌を始めた頃からの習慣で、お互いの〇をかすかに意識しつつ(それほど強くは気にしていない)読んでいるが、無言で歌集のなかで会話をしているような読み方なのかもしれない。

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