短歌時評

公共性と孤独 / 浅野 大輝

2022年5月号

 角川「短歌」二〇二二年三月号の特集は「詠嘆の可能性」。特集中の永井祐「詠嘆の場所」という文章に特に興味を惹かれた。
  エスカレーターがのぼると外があらわれてそれから外に出てくるわたし
                           左沢森「思ったと思う」
  友人が嘔吐している 友人はわたしの前で嘔吐ができる
                            山階基『風にあたる』

 永井は短歌が「SNSが一般化した社会において、『わたしだけの詠嘆』を持つことはけっこう難しいのかもしれない」とし、例えば左沢作品の「『わたし』の位置をさぐる」表現に「失われている一人の孤独の場所を見つけ直そうとしている」感覚を指摘する。また山階作品のような「行為をもとにして、相手の心を推し量る形を取っている」作品のあり方が「エンパシー的」であるとし、そこにある他者性の尊重に共感しつつも、同時にこの状況下では「心の声や詠嘆がかつてなく安くなっていることと表裏一体」と指摘する。
 永井の指摘は概ね首肯できるものと思いつつ、一方で時評子には論末尾の「かつてなく安くなっている」という言及が、多少言い過ぎなようにも感じられた。確かにSNSの普及により多くの感動が詠嘆として放出されるようになったことは、短歌における「わたしだけの詠嘆」の存在を薄めたであろう。しかし一方で、一人の詠嘆がSNSによって多くの賛同を得て〈わたしたちの声〉とでもいうような振る舞いをし始めるケースも観測しやすくなった。そう思えば、詠嘆は「安くなっている」のではなく、より公共性をまといやすくなった、ということなのではないか。
 一人の声としての詠嘆だけでなく〈わたしたちの声〉として公共性ある詠嘆の可能性もひらかれており、また逆に公共的であるがゆえに他者と共有しやすく、それゆえに成立する詠嘆が発生している――そう考えると、「失われている一人の孤独の場所」の重みを感じながらも、同時にその孤独の共有可能な領域の拡大に、短歌における他者との相互理解のための方策が見えるようにも思う。
 左沢作品や山階作品の表現上の工夫は、主に位置関係や行為などこの世界で広く観測可能な公共的な事柄によって構成されているという点と、その公共性の強い言及のなかに「わたし」という短歌における一般的な観測点までをも相対化して含んでいる点との二点にある。これらのようないくつかの条件が揃うとき、その作品は単なる公共的な事実としてでも私的な感動としてでもなく、そのあわいに他者との共有可能性を持つ詠嘆という独特な表現として成立するのではないか。
 公共的なものによる他者との感情や感覚の共有という観点でいえば、例えば野矢茂樹が『心という難問:空間・身体・意味』などで展開した議論が時評子には連想される。
  私たちの日常的な実感に従うならば、その窓からスカイツリーが見えるというこ
  とは、世界のあり方についての客観的なことがらではないだろうか。
 野矢は「眺望論」という自身の議論において、主体のあり方が影響する有視点的な世界の把握が、実は科学や地図のように主体のあり方が影響しない無視点的な把握と同様に客観的であると主張する。そして野矢は有視点な世界のあり方――「眺望」のうちに公共的で他者と共有可能な部分の存在を指摘する。
  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
                            正岡子規『竹の里歌』

 公共的なものや非人称的なものを経由することが、短歌においても他者と世界を共有し相互に理解し合うための鍵となる――その発想で眺めるとき、左沢や山階などの作品と、従来の写生的な作品が重なって見えてくる。短歌における孤独な詠嘆もまた、常に表現の公共性と隣り合わせに息づいている。

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