短歌時評

可能と不能のあわいに / 浅野 大輝

2022年4月号

 正月が明けて以降、山下翔『meal』を読み進めていた。山下翔の歌を読むたび、私はなんだかとても元気になる。
  安売りの刺身につひに手が出せたよろこびに鰺のたたき味はふ
  ただ一枚ありたる紫蘇を挟みしがもつとも深き味を出だせり

 山下作品の魅力のひとつは、複数首で語ることに振り切っているがゆえに生じる一首の軽さである。前掲二首では、二首目が一首目の文脈を明確に引き継いでいる。そして二首目は、単独では何かを「一枚」の「紫蘇」と食べてみたら「深き味」がした、という以上の情報を有していない。「紫蘇」と共に食べているのが「鰺」であるということすら一首の外の文脈へ放り出されているわけであり、この思い切りの良さがとても清々しい。
  野球してゐたころの午後の砂埃ここまで飛んで涙目になる
 一首屹立での歌を必ずしも志向していない山下作品だが、一方でその複数首での語りを支えているものは、言葉の流れを敏感に感じ取って制御する技術の確かさである。たとえばこの一首であれば、「午後の砂埃」と「涙目になる」という言葉に対し、「野球してゐたころの」「ここまで飛んで」という修飾を施すことで、単純な空間的な広がりを超えた時間的な広がり、そこに横たわったどうにもならなさ/取り返しのつかなさを読者に提示している。複数首で語るという意識だけでなく、こうした一首単位の表現における細やかな配慮もある。ここに山下作品の加算/減算の旨味があると思う。
  黙々とご飯三杯を食べをへつごはんで胸をいつぱいにする
  母とゐた暮らしのなかに鍋といふものあらざりきおもひおもへど

 第一歌集から続く「母」など家族への複雑な感情や自身の経済的困窮など、山下作品にはどうにもならない悲しみが底流している。食事や表現とは自身の制御が効く、どうにもならない悲しみへの対処法と言っていいかもしれない。自身が制御できるもの/制御できないもののあわいに人間が見えるのである。
 制御可能/制御不能のあわいを見出すことができる好例として、近刊の歌集では嶋稟太郎『羽と風鈴』も非常に読み応えがあった。
  蕗の葉がテニスコートの北側のフェンスの下に押し寄せている
  開かれた大きな窓のある部屋に夏の考課を聞きながらいる

 嶋作品でまず特徴的なのは、ものの配置や状態についての描写のこだわりであろう。「テニスコートの北側のフェンスの下に」あるいは「開かれた大きな窓のある部屋」というような、位置や状況についてのディティールが歌の大部分を占めている構成は、作者が好んでいる佐藤佐太郎の作品とも通ずる。
 過剰なまでのディティールの書き込みはそれらが事実としてそうであったという印象を強めるが、そこに「蕗の葉」「夏の考課」というような、清涼感のあるイメージが登場するのもまた、嶋作品の魅力を作っていると言ってよい。これにより嶋作品は、事実的/現実的である(と感じやすい)という確かさを有しながら、同時に爽やかな静物画のようなうつくしさを纏って立ち上がるのである。
 言語表現としてはすべてを自身の制御下におく歌も想定できるが、そのときあるのは制御可能なもの――既に自身の側にあるもののみであろう。そこに本当におもしろさはあるのか。実はおもしろさは、どうにもならなさや事実といった世界の側――つまり制御不能な領域と共にやってくるのではないか。制御可能/制御不能のあわいに、両者が合意可能なひとつの着地点を見出す。山下作品・嶋作品を読むとき、そのせめぎあいこそが歌のおもしろさなのではないかと思うのである。

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