短歌時評

メタバースは短歌に何をもたらすか? / 浅野 大輝 

2022年1月号

 二〇二一年夏頃にFacebookやMicrosoftが言及して以降、メタバースという用語が頻繁に話題に上がるようになった。Facebookが社名をMetaに変更すると関心はさらに広まり、いまやメタバースはニュースやSNSなど様々な場所で熱く語られている。
 ニール・スティーヴンスンによる一九九二年の小説『スノウ・クラッシュ』で初めて登場したメタバースは、小説や映画、ゲームなどの分野で取り上げられながら議論が行われてきた。現状確立した定義はないが、概ね「プラットフォームの違いに依らず参加可能な、現実とは異なる世界として社会性を有する三次元の仮想空間」が「メタバース」とされ、技術的目標として期待されている。
 メタバースという技術の発展は、短歌に対しても大きな影響を及ぼすのではないか。
  クロネコのAIに氏名名告なのりたりAIはわれの何知りてゐる
                           伊藤一彦「さなきだに」
  セロトニン既読が付かぬセロトニン! ソファでさえ目を合わせないでいて
                         冨岡正太郎「H*ppy*nd」

 短歌における技術要素の受容は、まずモチーフとして前景的に描かれる形で行われる。そしてその後、その技術の存在が作者や作中主体の認識において前提となり、モチーフとしては後退する。前掲二首は「短歌」二〇二一年十一月号掲載の作品だが、それぞれ技術的な要素を詠み込みながらも、伊藤作品が「AI」をモチーフとして配置しているのに対し、冨岡作品は「自分の言葉が相手に届かない」という状況に主眼を置いており「既読」やメッセージアプリという技術要素は認識の前提となっている。こうした例からも、生活に普及した技術要素の方がモチーフとしては後退して認識の前提となり、普及途上にある技術要素の方が新奇なモチーフとして受け取られやすくなっていると指摘できる。
 短歌において技術要素として受容されるなら、メタバースも当然モチーフから前提へという経路を辿るだろう。一方、メタバースには「現実の自分とは違う自分」という視点を現実化する特徴がある。これは単に技術として受容されるだけではなく、短歌の視点つまり「われ」に大きく影響するのではないか。
 近代以降、短歌は「われ」という視点の発見から「われならぬわれ」――現実の「われ」を超えた「われ」の活用へと進んだ。メタバースが生活に浸透したときに起こるのは、この「われならぬわれ」の現実化である。
 (…)塚本が作中で意図的に試みたアイロニカルな価値の反転が、今ではもう歌の
 外部の世界で顕在化している(…)
                        穂村弘「塚本的幻想の現実化」
 これは「短歌」二〇〇七年一月増刊「短歌年鑑」掲載の文章であるが、ここでは生活や文化の変化に伴って塚本邦雄やその門下の歌人たちの作品における「幻想」つまり批評的性格を持った想像の内容が急速に現実化しつつあることを指摘している。
 非現実の世界をより良く体感できるようメタバースが発展したとき、私たちはこの現実世界において「非現実の空間にも私がいる」という感覚を得られるようになる。つまり、「われならぬわれ」が現実のものとなるのであるが、このとき穂村が指摘した「塚本的幻想の現実化」と同様に、「われならぬわれ」という短歌の視点はその意味合いを考え直さざるを得ないであろう。そして「われならぬわれ」の現実化が進めば、短歌における「われ」の在り方や、私たちの読解・制作というプロセスもまた変質せざるを得ない。
 そう考えるなら、メタバースはこれまでの技術革新とは全く違った衝撃を短歌に与えうる。短歌の「われ」を揺さぶり、短歌に関する経験を変えうるものとして、メタバースの発展は注視するに値するものだと私は思う。

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