八角堂便り

遠火事の臭い / 真中 朋久

2022年1月号

 十一月二十九日、月曜日の朝、家で仕事をしていて、どうもこげくさい。南西に黒い煙が上がっているのが見える。
 午後になって、ニュースを見るとわが家から直線で20キロほど離れた大阪湾の埋立地で、物流会社の倉庫が炎上していることがわかった。
 倉庫か。それはなかなかたいへんかもしれない。燃えやすいものが密集状態で置かれていて、いったん燃え出すと、なかなか鎮火しない。扉を開けたとたんに、空気が入って炎が上がることもある。
  八年やとせまへの火事くわじをおもへば心いたし一時間いちじかんにして皆もえたりき
                              齋藤茂吉『石泉』
 茂吉が欧州から戻る途上であり、歌集『遍歴』の詞書には「午前一時靑山腦病院全燒の無線電報を受く」とある。ウィーンやミュンヘンで苦労して集めた医学文献は先に送ってあって、蔵におさめてあった。
 病院が鎮火して、燃えなかった蔵の扉を開けたら収めていたものが燃え上がる。「一時間」がそれなのかどうか、八年の後も悔しさがよみがえる。
 物流倉庫を個人宅の「蔵」と比べられるものではないだろうが、そういうことはある。大阪市によれば「過去に発生した同様の大規模な倉庫火災では、鎮火に至るまでに12日間を要しました」という。それは2017年の埼玉県での火災で、そのときは池袋の高層ビルで仕事をしていて直線距離はやはり20キロ、煙が上がるのが見えて臭いも感じた。
 火事の臭いは独特だ。
  遠き火事窓ににほへるこのゆふべ草の花よりあはあはし子は
                           小島ゆかり『月光公園』
  火事場にてスルメの臭いするときは死者が居るとぞ老い人は言う
                            吉川宏志『西行の肺』
 落ち葉の焚火ではない。薪や石炭の煙とも違う。さまざまなものの燃える臭いは、おそらく有毒成分も含むだろう。遠い火事なら心配するほどではないだろうが、外に干していた洗濯物にかすかに臭いがついた。有機物が燃えるのは独特だが、「スルメの臭い」は生々しい。
  火事あるは近くあらしも電車とまる街のなかに烟臭ぐさしも
                             中村憲吉『林泉集』
 中村憲吉のこの作品は都会で生活していた頃のもの。広島・布野で林業も含む家業を継いでからは山林火災に直面することになる。
  「春風しゆんぷう火をこのむ」と書きし立札たてふだかひの村山の落葉のぬくむこのごろ
                           中村憲吉『軽雷集以後』
 年末年始は街中の「火の用心」。乾燥して風が強くなる春は「山火事注意」。昔の火の始末はわかりやすかったが、最近はバッテリーが発火したり、思わぬものから火が出るのが恐ろしい。

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