青蟬通信

二〇二一年の歌集から / 吉川 宏志

2021年12月号

 もう年の瀬となった。今年出た歌集で、この欄に取り上げられなかったものから、印象に残った歌を一首ずつ紹介していきたい。
  夜ふけて鏡のなかを覗くわれわれを介して死に見られをり
                           高野公彦『水の自画像』
 鏡に映った自分の顔。それを通して、死神のような存在から自分は見られている、と感じている。〈われ〉の中に、いつも死があるのだ、とも言えるだろう。不思議で、静かな怖さのある歌である。
  この石をちよつと見てゐてくださいと蜥蜴去りたり陽だまりの石
                            川野里子『天窓紀行』
 春になると、トカゲが石の上で陽を浴びている姿をときどき見かける。上の句の口調がなんとも言えずかわいらしく、おもしろい。トカゲはまた戻ってくるのだろうか。石だけが明るく陽に照らされている。
  雪暗ゆきぐれの空ひろがりて鳴くこゑのしばしば越えるわれの頭上を
                               外塚喬『鳴禽』
 「雪暗れ」とは、雪模様で空が暗いこと。いい言葉が選ばれ、歌の味わいを深くしている。また「鳥」という語を使わずに鳥の動きを表現しているところも巧みである。静謐で、空間性の豊かな一首。
  十枚の湿布をベッドに並べつつこれがわたしの背中の広さ
                             冬道麻子『梅花藻』
 当たり前といえば当たり前なのだが、このように歌われると、とても新鮮に感じられる。「十枚」という数字や、下の句の柔らかな口調が効いているのだろう。重病で、ずっと仰臥生活を送っているという背景があるのだが、歌には澄んだ明るさがある。
  風聞のなかに重篤患者は居てのうぜんかづら赤い息する
                             林和清『朱雀の聲』
 コロナの重症者が非常に増えたことが報道されたが、実際にその姿を見ることは少ない――たまたま運が良かったに過ぎないが。自分が見えないところで苦しい呼吸をしている患者の姿を、想像するばかりである。ノウゼンカズラの花が鮮烈で、その想像をなまなましくしている。
  家族みな子どもにかへり秋の日を子どもどうしで遊んでみたし
                            小島ゆかり『雪麻呂』
 家族とは、世代の違う集まりである。世代が違うから、ときどき争いも起きる。みんな一緒に子どもに戻れたら、悩み苦しむことなく、楽しく過ごせるだろうに、と思う。明るい雰囲気の歌だが、背後にはやりきれない寂しさがあるのだろう。「秋の日を」が、助詞も含めて効いていて、この夢想にリアリティを与えている。
  祝い事無くても外で食事する家族でいたい 息子が言えり
                          川本千栄『森へ行った日』
 私自身も、子どものころ、外食する機会は非常に少なかったので、この気持ちは分かる気がする。外から見られることで、家族であることを確かめたい不安感は、子どもにはあるのではなかろうか。しかし、家でいつも料理している親としては、ちょっとショックを受ける。何でもない場面だが、妙に哀しい一首であった。
  三年をともに過ごして子はいまだ母の名前を知らずにゐたり
                            山木礼子『太陽の横』
 三歳だと、まだ母親の名前を覚えていないわけだ。当然のことなのだが、このように歌われると、見えないところに光が当たったように驚かされ、母と子の関係について、さまざまに考えさせられる。名前を知らないで触れ合うことができる時間の短さ、といったことを思うのである。
  「簡単な感電体験」含まれる工場電気安全教育
                        奥村知世『工場』
 子育てをしながら工場に勤める人の歌集で、現実をストレートに押し出してくる文体に迫力がある。「簡単な感電体験」と、実際に書かれていたのだろう。何げない言葉の中に、異様な怖さがある。
 他にも取り上げたい歌集はあるのだが、紙幅が尽きた。口語の冒険が盛んだった時期がやや落ち着き、作者の個々のテーマを探求した充実した歌集が多かったように思う。山木礼子や奥村知世の歌集には、男性社会を批判した歌も多く、今後さらに深く読んでゆく必要があろう。

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