百葉箱

百葉箱2021年11月号 / 吉川 宏志

2021年11月号

  マスクして筆談したのち知らされる読唇術を頼りにする人と
                             一宮奈生

 感染防止のためだが、相手にとって不自由なことだったと後で知り、かすかな苦さを感じている。現場の悩みが伝わる歌である。
 
  歪みたる石の階段に遊びたり そこは淀川の荷揚げ場といふ
                             筑井悦子

 子どもの頃の遊び場に、長い歴史があったことを知った驚き。「歪みたる」に味わいがある。
 
  クレーンより白いタオルの手が伸びる頬を拭かれる平和祈念像
                              寺田裕子

 長崎の被爆地の像。意外な姿だが、いきいきと目に浮かぶ。「白いタオル」が鮮やかだ。
 
  あなたより先に死にたしそののちのあなたの死後にふたたびを死ぬ
                                大森静佳

 肉体の死の後、忘却されることでこの世から死者は消えてゆく。その認識をさらに突き詰め、不思議な思弁性のある歌になった。
 
  グレゴリアン聖歌の赤き四線譜に高き窓より稲妻走る
                          大久保 明

 五線譜以前には「四線譜」があったらしい。題材が揃っていて、ゴシック的な美しさがある。
 
  廂のなき家に住み慣れて雨音は直接話法のごとくひびけり
                            立川目陽子

 廂がないので、雨が強くぶつかってくる。それをユニークな比喩で捉えている。
 
  皿の底しづかにかさね夏の過ぐ 死者のみ数字となりて残りぬ
                              大河原陽子

 感染者数は変化するが、死者数はそのまま蓄積していく。その数の重み。「皿の底」も、深い象徴性を感じさせる。
 
  カーテンの丈が足りない部屋を撮るそれを笑って君がみている
                              阿部はづき

 引っ越したばかりのような印象がある。「足りない」ことがかえって幸福なことがある。
 
  牛乳を吸ひ紙パックくしゆくしゆと凹むがごとく老いてゆく母
                              吉田達郎

 比喩が妙にリアルで、老いが強く迫ってくる歌。
 
  頭痛からスズメがはみ出るように鳴く夏のくもりの窓のあかるさ
                               椛沢知世

 頭痛で、雀の声も、自分の耳の中に入ってこないような感覚だろう。下の句も情感がある。
 
  寝返ってゆくのはシーツの端っこの“ひんやり”がまだ残ったところ
                                鳥本純平

 誰もが経験することを、うまく言い当てていて、印象的だ。
 
  金色の楽器を吹ける乙女たち 死ぬを忘れて生きたかりけり
                             小川節三

 素直な詠嘆に実感がある。上の句の若々しい情景と対比され、悲しみが濃くなっている。
 
  発電用風車の羽が重ねられ地上に在ればその長きこと
                          佐藤裕扇

 遠くから見たときとは全然違う巨大さに衝撃を受けている。簡潔な文体がよく効いている。
 
  釣りせんと明石大門に漕ぎ出れば一筋の橋夕日を分かつ
                           森山 功

 柿本人麻呂の明石大門の歌を踏まえつつ、スケールの大きな情景を描き出している。
 
  びっしりと稲穂に咲く花二時間を過ぎれば散りて田水に浮かぶ
                              竹内多美子

 「二時間」から、稲の花のはかなさが伝わってくる。
 
  躓きし母助けむと手をとればその手冷たしあぢさゐのごと
                            小平厚子

 結句の比喩が心に響く歌で、衰えた母を介護する哀感が滲み出ている一首である。
 
  家の中に変な虫が入る 変な虫とはつまり知らない虫だ
                           西村鴻一

 当たり前のようで、人を食った可笑しさがある歌。

ページトップへ