百葉箱2021年10月号 / 吉川 宏志
2021年10月号
平泳ぎの水掻くように暗幕を分けて出入りすこの看護師は
小島美智子
ウイルス防護のための幕なのだろう。看護師の動きが目に見えてくる歌である。
「あゝいやだ」など詠みてはならないと大和田建樹の『歌之手引』に
新谷休呆
大和田建樹は「鉄道唱歌」などを作詞した明治期の人。「あゝいやだ」は、作者が抱えている鬱屈でもあるのだろう。
きしきしと翅すり合はせ哭く虫のやうに女が髪洗ひをり
加藤 宙
鈴虫などの翅だろう。女性の悲しみが卓抜な比喩によってなまなまと伝わってくる。
なうそこの猫よ 一昨日あの青い紫陽花の辺で会うたではないか
千村久仁子
旧仮名の効いた口調や句割れがおもしろく、不思議な時間感覚が生み出されている。
渓流に足だけつけよと思いしがたっぷり水をふくんだオムツ
青垣美和
幼い子を川で遊ばせた場面。「足だけ」なんてわけにはいかず、びしょ濡れになっている。「オムツ」に焦点を絞ったのがいい。
短歌にて最後の戦地判れどもその先は骨も歌も残らず
神﨑蘭子
簡明な表現に虚しい悲しみがこもる。戦争中に短歌が果たした役割について考えさせられる。
無花果のおへそにテープを貼っており匂いに群れるアリ来ぬように
竹内多美子
農作業を具体的に描き、いきいきとした一首となった。「おへそにテープ」がユニーク。
剥がしたら磯の生き物じみていてかわいくなってくる絆創膏
平出 奔
「磯の生き物」に、なるほどと思う。「…じみていて」という口語の使い方にも工夫がある。
ひとひとり入れるだけのちいささの影持ち運ぶ季節を歩く
紫野 春
「日傘」という語を使わず、炎天のイメージをうまく詠んでいる。「歩く」に力強さがある。
白血病の薬になると聞きし花 夾竹桃はヒロシマの花
藤原 學
名詞が多く、シンプルな歌い方だが、このようにしか歌えない、という響きが感じられる。
ワクチンを二回打ったら会おうねと言いそうになる笑まう写真に
岡村圭子
「笑まう写真」は亡くなった人なのだろう。長く会っていないだけだと、つい思ってしまった。哀感のにじむ歌である。
「らい」と呼ばれ疎まれ追われ踏み入りし収容の島にかくまで長き
馬場先智明
ハンセン病の隔離を詠む。動詞の畳み掛けに、患者の受難を悲しむ思いがこもっている。
からつぽのぼくへと満ちてゆく酒がぼくの代はりに笑つてくれる
宮本背水
酒を別人格のように表現し、人間関係のつらさも感じさせる。
君にも君にも君にも君にも名前あり 被害者匿名裁判始まる
谷川百合
やまゆり園事件の裁判を詠む。「君にも」の繰り返しに強い痛みがあり、名前を消されたことへの怒りと悲しみが響いてくる。
透明なアクリル板の連なった先の世界は透明じゃない
音平まど
コロナ禍でよく見る風景を、先の見えない不安感に巧みにつなげている。
蛇の衣拾ひたること黙しをり子はポケットに手を入れしまま
小平厚子
捨てたくなくて、全身で隠している子の姿が目に浮かぶ。