青蟬通信

手を引きて推敲の勢ひを作す / 吉川 宏志

2021年7月号

 「推敲」という言葉の由来となったエピソードが好きである。
 唐の詩人・賈島(かとう)は、任官の試験を受けるために都にやってきた。ロバに乗りながら、「僧は推す月下の門」という自作の詩の一節について、「僧は敲(たた)く」のほうがいいのではないか、と迷い、考え込んでいた。
 集中するあまり、前を見ていなかったのだろう。有名な詩人である韓愈(かんゆ)の行列にぶつかってしまった。賈島が事情を話すと、韓愈は非礼をとがめず、「敲く」の方がよいと教え、詩について親しく語り合った、という。門をコンコンと叩く音が聞こえるほうが、月夜の静けさが際立つためであるらしい。
 詩の細部を考える楽しさとか、詩を語り合える友人を得る喜びとか、さまざまな要素が含まれている話であろう。
 ただ、私が特におもしろいと感じるのは、原文(『唐詩紀事』)の「手を引きて推敲の勢ひを作(な)すも、未だ決せず」という部分なのである。門を押したり叩いたりする様子を、手で真似しながら考えていた、というのだ。ロバに乗りつつそんなことをしてたら危ないですよね。
 私も短歌を作るとき、実際に自分がどのような仕草をしていたか、再現してみることがある。たとえば、仕事で叱られたときに、自分がどんな動作をしていたかを、なるべく具体的に思い出そうとしたりした。同じようなことを、古代の中国の詩人がやっていたことを知り、とても嬉しく思ったのである。
 一九九六年の春に、熱海で一晩かけて歌を作り、その歌で歌合(うたあわせ)をするイベントに参加したことがある(岩波新書『短歌パラダイス』参照)。そのとき、加藤治郎さんが夜中に作歌する様子を目撃したのだが、両手を怪しく動かしながら考えていた。そのとき加藤さんが出されたのが、
  洗われて手にひえている精巣をすべて無邪気な季節のために
という不思議な歌で、精巣を洗っているときの手の動きをイメージしていたらしい。あの手の動きからすると、相当大きな精巣だった気がする。牛の精巣だったのかもしれない。
 さて、横山未来子の最新歌集『とく来たりませ』が出た。好きな歌が多い歌集だが、今回は次の一首に立ち止まってみる。
  花首より出でたる蟻を這はせたりいくたびもわが掌(て)ひるがへしつつ
 たしかに、ときどき手のひらを裏返すと、いつまでも蟻が歩き続けるということが起きる。無意識にやっている当たり前のような行為だが、こうして歌の言葉で表現されると、はっとさせられる。くすぐったいような感触も思い出されるのである。自分の行為を、冷静に外側から見つめるまなざしが無ければ、こうした歌は生まれてこない。
 映画やドラマで、手をクローズアップして、この場面が流れたら、ミステリアスな印象が残るのではないか。それと同じように、短歌でも、何げない一つのシーンを切り取った描写によって、静かなインパクトが生まれてくることがある。
  唇にうすき硝子をはさみつつみづを飲みたり明けがたのみづを
 この歌にも驚かされた。歌の内容は、水を飲んでいるだけなのである。しかし、まさにこの表現どおりで、水を飲むときは、唇でガラスのコップのふちを挟んでいる。無意識なので全く気づいていなかったが、このように言語化されると、日常の行為に、新しい光が当てられた感じがする。
 言葉で行為が表現されるとき、作者と読者のあいだで、身体的な共有感覚が生まれてくる。その表現が、無意識的なものを照らし出す新鮮さを持っていれば、身体的なつながりはさらに深いものになるだろう。
 そのように、作者と読者の身体が重なり合うとき、歌の中に書かれている言葉以上のものが伝わってくるのではないか。
 横山の歌であれば、唇に触れるガラスの冷たさから、どこか哀感が沁み込んでくる。言葉で表現されていないのに響いてくる身体的な感情。それが〈なまなましさ〉とか〈リアリティ〉といった言葉で呼ばれているものだと思うのである。

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