青蟬通信

啄木と函館の大火 / 吉川 宏志

2021年5月号

 四月号で、石川啄木が大火をきっかけにして、約五か月住んだ函館を離れたことについて書いた。当時の啄木の日記が非常に興味深いので、もう少し書き続けたい。
 函館は大火の多いところで、昭和九年(一九三四年)にも、二一〇〇人以上の死者を出した火災が起きている。強風が吹く土地であるためらしい。啄木が遭遇したのは、明治四〇年(一九〇七年)八月二十五日の大火で、死者は八人と少なかったけれど、一二〇〇〇戸以上の家が焼失したというから凄まじい。現存する旧函館市庁庁舎は、この火事の二年後に建てられたものだそうだ。
 啄木は、日記「函館の夏」で、炎を次のように描写している。
「火は大洪水の如く街々を流れ、火の子(ママ)は夕立の雨の如く、幾億万の赤き糸を束ねたるが如く降れりき、全市は火なりき、否狂へる一の物音なりき」
 さすがに迫力のある文体である。大火を見たときの興奮が伝わってくる。しかし、それに続く文には呆然としてしまう。
「高きより之を見たる時、予は手を打ちて快哉を叫べりき、予の見たるは幾万人の家をやく残忍の火にあらずして、悲壮極まる革命の旗を翻へし、長さ一里の火の壁の上より函館を掩へる真黒の手なりき」
 啄木の住んでいた青柳町は、坂の上に位置する。そこから燃える市街を見下ろして、喜んでいたのである。
それはなぜか。
「大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して今や新らしき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝杯をあげむとす」
 街の繁栄によって蓄積された財産が焼き払われ、新しい時代が生み出されることを、啄木は「革命」と捉えたのである。しかし、このときの彼の眼には、家を焼かれて苦しむ庶民の姿は入っていなかった。そして啄木は、大火の後すぐにこの地を去るわけで、「新しき建設」に自らは参加しなかった。啄木の「革命」観は、この時点では、それほど深いものではなかったように感じられる。
 ただ、啄木を弁護しておくと、
「途上弱き人々を助け、手を引きて安全の地に移しなどして午前三時に家にかへれりき」
ともあるので、救助活動はしていたようだ。日記の文章は、実際の啄木の人間性とは、やや異なるものなのかもしれない。
 さて啄木が家に帰ってみると、同居している母、妻、妹、娘が、火事の延焼を恐れて動揺している。さて、そのとき啄木は何をしたでしょう。
「予は乃ち盆踊を踊れり、渋民の盆踊を踊れり、かくて皆笑へる時予は乃ち公園の後なる松林に避難する事に決し、殆ど残す所なく家具を運べりき」
 意外な行為に皆あっけにとられ、かえって落ち着いたのではないか。大変印象的な場面で、こういうところに啄木の魅力はあるのだろう。
 大火から一週間が過ぎた九月一日、尋常小学校の代用教員だった啄木は、生徒に集合場所を知らせる貼り紙を、焼け跡に貼って回った。女性教師二人と一緒だったらしい。
 焼け出された理髪師が、海辺で客の髪を刈っている様子や、焼け跡の異様な臭いなどを、啄木は描写している。そしてその後に、謎めいた一節がある。
「さて予等はいと疲れたり。疲れたれども若き女は優しきものなりき。これ大いなる秘密なり、然れども亦美しき秘密なり」
 焼け跡をずっと歩いているうちに、異様な精神状態になり、女性教師の一人と抱き合う、というようなことがあったのだろうか。ただ、啄木はその夜は友人宅を訪ねているので、それ以上のことはなかったようだ。
 そんな「美しき秘密」もあったのに、啄木は函館をあっさりと去った。自分が生きている場所のために尽くすか、あるいは自分の夢を求めて別の新しい場所を求めるか。そうした選択は、人生の中でたまに起きて、我々は悩み苦しむ。しかし、啄木の場合、あまり迷いが感じられないのも、不思議でおもしろいところである。

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