青蟬通信

石川啄木一族の墓 / 吉川 宏志

2021年4月号

 二月になると、会社の仕事で全国各地の学校を営業して回った。そんな出張をするのも終わりになるが、今年は函館に四日ほど滞在した。駅の観光ガイドで、石川啄木一族の墓があることを知り、早朝に行ってみることにした。
 函館駅から路面電車で、谷地頭(やちがしら)という駅に向かう。そこから岬に向かって二十分ほど歩く。まだ誰も通っていないので、雪は深々と積もっていて、靴がずぶりずぶりとめりこんだ。雪の坂をときどき滑りながらのぼっていって、海が見えてきたあたりに墓は黒々と立っていた。
 「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」の歌が刻まれている。この「磯」は、函館の大森浜だと言われており、墓からは遠く海岸線を見渡すことができる。ときどき海猫の声が聞こえた。
 啄木は一九一二年に東京で死んだ。なぜ函館に墓があるのか。墓の近くに立つ説明板によると、「『死ぬときは函館で……』と言うほど函館の人と風物をこよなく愛した」。妻の節子の希望で、一九一三年に遺骨は函館に移されたが、節子もそこですぐに亡くなった。その十三年後、義弟であった歌人の宮崎郁雨、当時の函館図書館長の岡田健蔵により、現在の墓碑が建てられたのだという。
 啄木が函館に暮らしたのは、一九〇七年の五月から九月まで、たった五か月に過ぎない。故郷の渋民村でストライキを行い、学校を解雇された啄木は、孤独に北海道へ渡った。しかし、その夏の日々は、彼の心にまぶしく残った。啄木は、その年の一月に創刊された「紅苜蓿(べにうまごやし)」という文学雑誌のグループに加わる。「明星」にも作品が掲載された啄木を、北海道の若い詩人たちは敬意をもって迎えた。プライドが満たされたことが、函館への親愛感の要因になったことは間違いないだろう。
 また啄木は、弥生尋常小学校に代用教員として勤めることになり、女性教師と仲良くなったりもしたようである(啄木にはすでに妻子があったけれど)。八月の初めに、母と妻と幼い娘、そして妹を、青柳町の家に呼び寄せる。狭い家はにぎやかになったが、「天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり」と、日記に書きつけている。
  函館の青柳町こそかなしけれ
  友の恋歌
  矢ぐるまの花
    
          『一握の砂』
は地名がとても効いている歌だ。そして、友人たちと恋について語り合った日々の甘い懐かしさが「矢ぐるまの花」(ヤグルマギク)の美しい青に象徴されている。ヤグルマギクは明治時代に渡来したらしく、当時は目新しい花だったのかもしれない。
  こころざし得ぬ人々の
  あつまりて酒のむ場所が
  我が家(いへ)なりしかな

              同 
 啄木自身も「こころざし得ぬ人々」に入るのか、いや自分は違うという優越感があったのか。おそらく両方が混じっていただろう。野心とみじめさの混じり合う酒宴の様子が浮かんできて、秀歌とは違うけれど、共感してしまう一首である。
  ふるさとの
  麦のかをりを懐かしむ
  女の眉にこころひかれき

              同 
 これは同僚の女性教師を詠んだ歌なのだろう。農村を離れ、市街に住む女性の一瞬の表情が、魅力豊かに描かれている。
 しかし、明るい時間は長く続かなかった。八月二十五日に起きた函館の大火で、弥生尋常小学校も、新たに勤務の決まった函館日々新聞社も、燃えてしまったのである。啄木の住む青柳町は無事だった。函館の復興のための仕事も、たくさんあったのではないか、と思うのだが、啄木はこれを機会に、札幌へ向かうことになる。好きな街だったが、そこに身を捧げようとまでは思わなかった、ということなのか。
  函館のかの焼跡を去りし夜(よ)
  こころ残りを
  今も残しつ

              同 
 「残り」と「残し」の繰り返しが巧くて、シンプルだが、意外に深い奥行きのある歌である。焼跡に残って暮らすしかない人々を見捨ててしまった後ろめたさは、啄木の心からずっと消えなかったのだと思う。

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