短歌時評

運用と手順⑭ / 吉田 恭大 

2021年3月号

 街中の人々が皆マスクをつけるようになり、ほぼ一年が経った。都内では相変わらずTOKYO2020のバナーがいたるところに掲げられ、まるで昨年のロスタイムのような日常が続いている。皆様いかがお過ごしですか。
 世紀の祭典は無くても新年は来る。角川『短歌』の二月号、新企画「時代は今」のエッセイを読んだ。この企画は位置的に二〇一八年一月開始の「親父の小言」欄・二〇二〇年一月開始の「青年の主張」欄の実質的な後継にあたると思われる。
 第一回の執筆者は大森静佳。「青年」側の人選のように見えるが、今後「親父」相当の作者も登場するのだろうか。「親父」「青年」欄の在り方については「社会規範を無批判に適用し再生産している」(第二回・小原奈美)「まず看板だけでも変えましょう」(第六回・山階基)など、(決まって青年の側から)繰り返し批判がされてきた。見開きの効果で世代差を否応なしに感じさせるこれまでのレイアウトが失われるのは若干惜しい気もするが(気もするが)これからの展開に期待したい。
 「時代は今」の話に戻る。
  ある時期から、短歌の催しの懇親会などで「お子さんはまだ?」「早く生んだ方
 がいいよ」といった言葉を頻繁にかけられるようになった。
という大森の体験。これを、よくある年長者のありがた迷惑なお節介(例えば年始に親族が集まる場で交わされるような。それはそれで勿論ハラスメントなのだが)と同種のものとして矮小化してはいけないだろう。
 短歌研究一月号の時評「新しい賞について(1)」で、花山周子も同様の話について取り上げている。
  特に女性には経験がある方も多いと思うのだが、子供ができて歌がよくなった
 ね、というようなことを言われることがある。私は現実の〈わたし〉が精神的にな
 にかしらの刺激を受けることが作品に反映することは否定しないのだが、子供がで
 きたから歌がよくなった、というような観想のなかに息づく短絡性には個々の作家
 性を一元化するような強制的な価値観が透けて見えるものである。
 個々の発言者の価値観はともかく、出産や育児が人生に必要である、という視座を(たとえマジョリティであるにせよ)無邪気に他者にまで適用してしまうのは、現代ではいささかプリミティブが過ぎるのではないか。
 大森はさらに、島田修三の往年の岡井隆、美空ひばりに対する評価(「二人の群を抜いた技術は相応に人生を生き、相応に人間的な懐が深まった表現者にふさわしい」)に対し、『嵐が丘』のエミリー・ブロンテを引いて、人生経験と作品の豊さは関係ない、と反論する。エッセイ「人生上の経験やリアリティを重視するあまり、それらをわかりやすく消費する批評や実作が増えませんように。言葉は、人生よりも魂の印影と繋がった存在でありますように。」という結びは、大森の河野裕子論のスタンスと一貫するものがある。
 作品鑑賞に於いて。老若関係なく、年齢相応のレトリック、というような物言いは、多くの場合、年長者(と言って語弊があるならばここでは島田修三)によるマウンティングであり、生存者バイアスに過ぎない。
 修辞に対し安易に進歩史観を語るのは危険だが、島田の言う岡井隆にしても、「年相応の深み」はそれが出来るまでの岡井自身の作品、さらに言えば影響を与えた先行世代や同時代の制作者たちのたくさんの試行の末に成立しているものではないだろうか。
 個人的には、いくら作品が分不相応と言われたとしても、習作の屍山血河を築き続けるしかないと考えている。人生の長さに個人差がある以上、試行と研鑽の必要は本来、世代や人生経験の差を問わないと思うのだが。

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