八角堂便り

言葉は究極のデジタルである / 永田 和宏

2020年9月号

 先日、ちょっと不思議な会に呼ばれて話をする機会があった。テーマがSDGs。持続可能性社会へ向けて、国連で決議された十七項目からなる世界目標であり、各国でその実現に向けて努力がなされていることはもちろん知っていたが、私がそれについて話をすることになるとは思ってもみなかった。
 このご時世であるから、ズームによるオンラインでの開催ということになったのだが、ゴリラの山極寿一さんと、解剖学者の養老孟司さんと私。何とも不思議な取り合わせである。今はYouTubeで公開されているようなので、興味あるかたはご覧いただきたいが、そこで私はアナログとデジタルについて、少し話をした。
 デジタルと言うと、すぐに数字と思ってしまう向きが多いだろうが、実は言葉で表現するということこそが、究極のデジタル化に他ならないと私は思っている。いくら多くあると言っても、言葉は所詮有限である。有限の言葉をいくら重ねても、アナログである現実世界を表現しきることは、原理的に不可能である。1から始まる自然数は無限であるが、これはまだ可付番無限、すなわちどんどん数えていくことができる無限である。一方、私たちの眼前の世界は、どんなに小さな断片を取り上げても、それは無限。しかも念の入ったことに、一つ一つの要素を数え上げることができない、専門的には非可付番無限というべきものなのである。
 どんな景にしても、どんな事象にしても、非可付番無限である現実のアナログ世界を、有限の言葉によって、十全に対応させきることは原理的に不可能である。
 現実の景や、事象や感情を表現しようとする時、言葉と言葉の間には、だからかならず〈隙間〉がある筈なのである。この〈隙間〉に自覚的であることからしか、私たちの表現活動は始まりようがない。短詩型文学に携わる私たちは、その深いアポリア(難問)を抱え続け、耐えきる自覚がなくては表現者であることが叶わない。
 件の鼎談でそんなことを詳しく述べる余裕はなかったのだが、最近、ちょっと別の機会に話した別の例を挙げておきたい。
 俳人の長谷川櫂が、河野裕子の死に際して、追悼句を作ってくれた。句集『鶯』に収められている。
  河野裕子ゐない日本これより秋
                 長谷川 櫂 
  あつぱれな母でありしを大文字
 一句目の河野への評価はありがたいものだが、個人的には二句目を大切に思っている。「ありしを」の「を」にこめられた思い、それはすなわち言葉の〈隙間〉への自覚であり、表現の断念を以て、表現の力に変え得るという願いと確信でもあった筈である。

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