百葉箱2020年8月号 / 吉川 宏志
2020年8月号
空と海つながつてゐるこの朝(あした)小さきフライパンに卵を割りぬ
尾崎知子
大きな風景と、目の前の小さなものが調和して、一瞬の満ち足りた感覚を味わっている。
ひろおうか置いてゆこうか石段が産みたるような白い玉椿
澤端節子
白椿を卵のように感じたのだろう。上の句の心の揺らぎの表現で、臨場感が生まれている。
不織布が毛羽立ちてきてもぞもぞと鼻をからかひ一日(ひとひ)の終はる
一宮奈生
いかにも現在的な場面。「鼻をからかひ」は擬人法だが、巧みに触感を描いている。
連れ立てば寄り道おおし竜の髭に囲まれている蚕霊塔おがむ
中澤百合子
「蚕霊塔」が印象的。夫婦で散歩しているのだろう。一人なら行かないところにいざなわれる、田舎道の味わいがある。
御簾隔て会話せし御代思ひつつ透明シート越しにおしやべりをする
大木恵理子
コロナ流行後の生活の変化を描いた歌は多いが、清少納言的な発想に驚かされた。
「ひよこの餌」と検索すれば餌となるひよこの姿が混じる家居に
穂積みづほ
ひよこはペットの蛇などの餌になる。自分の意図とは真逆のものが現れ、つい見てしまった衝撃が伝わってくる。
ハート型の窓がかわゆしと写真撮る遊郭だったと後に教わる
御舩康子
面白がっていたが、悲しい過去を知り、後ろめたい気分になる。しばしば経験することを、具体的に表現し、説得力がある。
動かない花は好きじゃないんだと言った君雪柳が揺れているよ
藤森さと子
動物が好きで、植物に興味がない人なのだろう。下の句の切り返しがユニーク。独特のリズムがこの歌では効いている。
夜行バス降りて化粧室に向かうおんなの群れの一部となりぬ
工藤真子
個人であることが失われ「群れの一部」となる違和感。上の句の破調にも苛立ちが滲む。
校長は元(もと)同志なり我の顔遠目に見つつ「君が代」歌う
中村英俊
かつての同志を避けるような表情が見えるのだろう。苦い距離感が歌われ、胸に刺さる歌。
大陸の気流に乗って渡来するウンカに農薬「防人」を撒く
百崎 謙
農薬「防人」は実在するらしい。大陸からの害虫を駆除しつつ、歴史の皮肉を感じたのだろう。
わたしいまあなたのシャツの裏側でひっそりと死んだてんとうむし
滝川水穂
幼さの中に、不思議な切なさがある。この字足らずのリズムも、内容によく合っている。
アロエ入りヨーグルトひとつ切り離す 夫よりほかに会うひともなし
津田雅子
「切り離す」がよく、最近のヨーグルトの形をうまく捉えている。この具体性が、下の句の奥行きを深めている。
小鳥にも耳のくぼみはあるという 手ごたえばかり求めてしまう
浅井文人
この歌も、上の句の意外性のある具体が、孤独な思いに確かな輪郭を与えている。
バス停の真似をしながらバスを待つバスから降りてくる人を待つ
折原あんり
待っている時間の、自分が揺らぐような感覚が、言葉の繰り返しで歌われていて面白い。