「首夏物語」のことなど / 吉川 宏志
2015年2月号
昨年の十二月に、松村正直さんと「虚構の楽しさ 虚構の怖さ」という対談を大阪で行った。最近、虚構に関する議論が盛り上がっているが、いろいろな切り口から語ることができて、おもしろいテーマである。虚構が良いか悪いか、と単純化するのではなく、さまざまな作品に即して考えていくことが大切だろう。
松村さんの歌集『午前3時を過ぎて』は、一見、写実風なのだが、じつは意識的に虚構が取り入れられていることを知り、とても楽しい対談となった。松村さんの連作「人魚の肉」など、再読してみてください。
短歌は文学なので、どんなフィクションも許されると、私は基本的には考えている。
ただ、短歌は〈肉声〉にとても近いところがある。だから、まったく心にもないことを歌うと、文体が浮いたものになってしまう。嘘をついていると、声で分かるというが、それと同じことである。河野裕子さんはとても敏感であった。本音と違うようなことを詠んだ歌には、非常に懐疑的な表情を見せた。「本当に、そう感じたのかなあ」と、歌会で何度も言われていたことを思い出す。
虚構であっても、何か、なまなましいものが必要なのである。
対談では、永田和宏『黄金分割』に収録されている連作「首夏物語」を取り上げた。旧約聖書の創世記に、カインとアベルの物語がある。兄のカインは農作物を神に供え、弟のアベルは羊を捧げた。神はアベルの羊だけを受け入れ、カインを顧みなかった。カインはアベルに嫉妬し、弟を殺してしまう。その後カインは、エデンの東にあるノドの地に去ったという(映画「エデンの東」はこれをベースにしている)。
農耕民族と狩猟民族の対立も背後に秘められている気がするが、聖書の中ではとても短いエピソードである。永田は映像的な表現によってその情景を広げ、兄弟の愛憎を鮮明に描いている。五十首の大作で、ほんのわずかしか引けないが、
・向日葵を焚けば地平は昏みつつ故なく憎まれ来し少年期
・鷲摑み汝が捧げいる内臓の、愛さるる者にのみ血は潔からん
・ふりむきし額までの距離測るごとむしろ静かに振りおろしたり
・おとうとの血は蕁(いら)草にぬぐうべし棘の蟻酸の痛みは奔る
・地に噴ける稲妻の脚 われよりも愛されて汝は容易く死ねり
などが中核になる歌である。二首目はアベルが羊を神に捧げる場面だ。
三首目、聖書には殺害する場面は描かれていないのだが、「額までの距離を測るごと」凶器を振り下ろす、という描写で、スローモーションのような効果を生み出している。四首目の「蟻酸の痛み」にも、ひりひりとした感触がある。
虚構であればあるほど、具体的な細部の表現が重要になるのである。
今読み直すと、この連作は、永田の実際の少年時代や家庭環境を反映しているように感じられる。愛されていなかった、という哀しみと怒りが、虚構の背後にあるのではないか。
ただ、松村さんから、作品と作者の伝記的事実を、どれくらい結びつけて読むべきか、という問題提起も出て、いろいろと考えさせられた。基本的には作品だけを読むほうがいいが、作者のデータを反映して読むと、作品にさらに深みが生まれてくる場合は、一概に拒絶しなくてもよい、というファジーな姿勢が、最も自由性があって良いと私は考えている。しかしこれも、人それぞれに考え方があり、難しい問題である。
自分の思いをストレートに言えないために、あえて現実とは異なる設定を用いて歌っている作品がある。「首夏物語」も、おそらくそうで、聖書の一節を借りて、〈神〉すなわち父に対する愛憎を歌っているのであろう。だから、虚構であっても、なまなましいものが籠もっている。
こうした連作は最近少ないけれど、もっと作られてもいいのではないか。特に、最近の社会的な問題は、こうした方法で詠むことで、新しい視線が生まれてくるように思う。