短歌時評

運用と手順⑤ / 吉田 恭大

2020年6月

 四月七日に発令された緊急事態宣言は四月十六日、国内全都道府県に拡大される。五月四日には、政府はさらに同宣言を五月三一日まで延長することを発表した。
 引き続き図書館も劇場も開いていませんが、皆様がいかがおすごしでしょうか。お家にマスクは届きましたか?
 
 角川『短歌』五月号の特集「日常・社会はどう歌うか」では、「やりがちな失敗例」として「日記になってしまう」(志野暁子)、「ニュースの見出しになってしまう」(大崎瀬都)、「標語になってしまう」(後藤由紀恵)、「キャッチコピーになってしまう」(内山晶太)と、一般的によく陥りがちな問題について文章を寄せている。それぞれのトピックについては、これまで歌会の場や実作論として、多くの人に繰り返し言及されていることではあるが、特に内山の論が面白かった。
「(略)キャッチコピーは言葉がうまく丸められることで威力を発揮する。大勢の、さまざまな性質を持った一人一人に最大限沿うように、言葉が整えられる。短歌もそうなのではないか、という疑問が出てくるかもしれない。が、短歌は言葉を整えることに第一義があるわけではない。むしろ言葉が赴くままに動くことのほうに意義があって、結果的に整うことはあれ、それはあくまでもひとつの結果にすぎないのである。」
 創作者側の態度として、言葉を整えることを第一義としない、というのは非常に分かりやすいポイントである。
 一首の言葉の流れが「結果的に整う」ことについては、作者の力場=推敲の結果の側面と、読者の力場=共感の結果の側面、の二つの要素に腑分けして考えてみたい。
 多くの人に最大限沿うように整えられた言葉。最大公約数的な共感は、結果的に愛唱性を獲得する。高度に発達した愛唱歌はむしろ人々に繰り返し読まれ、言及されることによって「言葉が丸められ」、キャッチコピーに近づいてゆくのではないだろうか。
 ちなみに同特集では、高木佳子の選による「秀逸な日常詠・社会詠30首」が纏められており、一首目に啄木の「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」が挙げられている。
 コピーやスローガンの類が多くの大衆の共感を呼ぶことを目的とするものだとして、それが行き過ぎ、破綻した結果、所謂「ポエム」と呼ばれるようになるのは大変興味深い。現代の「ポエム」という語については細心の注意を払って運用しないと多方面から矢が飛んでくるのですが、ここでは便宜上「詩的な言葉」くらいの意味だと思ってください。そのうち時評で書きます。
 一例を挙げれば、フレーズの抽象化と類型化が高度に発達した分譲マンションの広告は、写真家の大山顕らによって「マンションポエム」と呼ばれ、今ではすっかり定着した。
 あるいは、政治家の発言についても(およそネガティブな意味で)ポエムと呼ばれるものが増えている。例えば敬意・感謝・絆などの耳障りのよい言葉で何をか意味のあることを言った気になってしまい、人々の共感に至らないという意味で、これは確かに(失敗した)ポエムといえるかもしれない。空々しく破綻した政治の言葉と、ありがちな失敗をした社会詠は、結果的に形が似ている。
 日常も社会も破綻しつつある状況で、敢えて何か表現しようとするのは大変なことだが、しかしここで、歌人はもっと怒りの政治詠を詠め、というような親父の小言を真に受けると、それこそ安直なスローガンに陥るだろう。それはそれでたのしいのかもしれないけれど。

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