青蟬通信

ウワミズザクラ / 吉川 宏志

2020年6月号

 塔の京都歌会に初めて参加したのは、十八歳のときだった。何度目かの歌会で、「ウワミズザクラ」という言葉の入った歌の評が当てられた。
 そんな桜なんて、見たことも聞いたこともない。「この花は知りません」と正直に言うと、冷ややかな空気が流れた。歌会の中心メンバーから、「ウワズミザクラを知らないなんて」というような厳しい表情をされたのである。
 後になって知ったことだが、高安国世の最後の歌集『光の春』に、
  さやさやに我にささやく声の如しウワミズザクラ日毎の朱実(あけみ)
という歌が収められているのである。比喩がやや甘い気もするが、「さやさやに」の「に」の使い方がおもしろいし、「日毎の」という言葉から、実が増えてゆく様子や、鮮やかな赤い色を毎日確かめるように見ている作者の姿が想像され、やはりいい歌だと思う。
 当時の塔の会員にとって、ウワミズザクラは高安国世を思い出させる特別な木だったのだ。私が塔に入ったのは、高安国世が亡くなった四年後だったから、亡くなった後の濃密な存在感がまだ残っていた。しかし、入会したばかりの私は、高安について何も知らない。無意識のうちに、悲しみを逆撫でするような言動があったのかもしれない。だから、「ウワミズザクラを知らない」と言ったことにより、苛立つような反応が生じたのだろう。
 歌会の後で誰かが、ウワミズザクラとは「上見ず桜」であり、地味な花なので、上を見ずに気づかずに過ぎてしまうからだと教えられた。だが、今調べると、この説は誤りらしく、古代の占いで、亀甲を焼くときに、上に溝を彫った木材として使ったためだという(「上溝(うわみぞ)」あるいは「占溝(うらみぞ)」の変化)。そう説明されても、どんな溝を彫るのかイメージしにくいが、令和の大嘗祭の亀 卜(きぼく)でも、ウワミズザクラが使われたそうだ。
 その十数年後、息子ができてから、京都の山をよく歩いた。幼い息子も、草木の茂った山の中を歩くのは、冒険気分で楽しかったようだ。春にはタラの芽を採りにいった。雑木林を歩いていて、ふと見上げると、白いブラシのような花を幾つも垂らしている木がある。奇妙な花だなと思って、家に帰って図鑑で調べると、これがウワミズザクラだった。ふつうの桜とはずいぶん違っていて驚いた。
 それからまた十数年が過ぎた。佐伯一麦さんの『空にみずうみ』を、最近読んだ。東日本大震災後の仙台での暮らしを、身の周りの自然をこまやかに見つめながら描いた小説である。主人公の早瀬は、粗大ごみ置き場で拾った学習机で、ずっと小説を書いてきた。家具職人の梓さんと知り合い、自分の机が欲しくなる。妻の柚子とともに、梓さんの工房を訪ねてゆく場面が、とてもいい。
「十五分ほどで着いた自宅を兼ねた工房の周りの雑木林には、早瀬の家の近所でもよく見かける上溝桜(うわずみざくら)らしい木が多かった。
 花期は終わっていたので、その花を説明するのに、もわもわっとしている花ですよね、と柚子が言うと、
 ――ああ、きりたんぽのような花だね。
と梓さんは即答した。
 そのやりとりを横で聞いていた早瀬は、うまい言い方だなあ、と感心した。
 それまで自分では、上溝桜の花を〝大きな毛虫のような花〟だと思ってきたが、それでは花にちょっと悪い気もしていた。」
 きりたんぽは、秋田県の郷土料理で、私も大好きなのだが、なるほどなあ、と思う比喩である。
 花を知ると、その花を通して、他人と心がつながっていく。高安国世がウワミズザクラを歌に詠んだのも、この木を知らない人がやがて知ることにより、思いが通じていくことを信じていたからかもしれない。
 そんなことを書いていたら、もう一度ウワミズザクラが見たくなった。ネットで検索したら、京都御苑の宜秋門の前に木があるという。自転車を漕いで見にゆくと、記憶に残っている白い花の房を、いくつも風に揺らしていた。たしかにきりたんぽだ、と思いながら眺めていた。

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