短歌時評

やわらかさへの志向 / 大森 静佳

2014年9月号

 いい歌集を読むと、日頃自分が想定している「時間」の長さや「自分」の幅が他者の言葉によって揺さぶられる。時間や自分が思いがけずやわらかく伸縮し、一冊を読み進むうちに世界の見え方が変わってくることが、歌集を読む楽しみのひとつだろう。

  窓越しに竹を見ている九十まで生きれば長い今日の夕ぐれ

 一昨年亡くなった岡部桂一郎の遺歌集『坂』は、この一首から始まる。九十年という生の総重量をかけて眺める眼に、一日の夕暮れはどう映るのか。見るともなしに外を見ている長い夕暮れのぼうっとしたやわらかさは、九十年の果てに辿りついた場所でもある。
 岡部の歌には、〈こんにゃくの裏と表のあやしさを歳晩の夜誰か見ている〉(『鳴滝』)のように、この世に物が存在していることへの根源的な不安がある。のびやかな口語的文体、平易な語彙、そして素材も日常的なものばかりなのだが、なぜか不思議な空間ができる。『坂』では、その独特のユーモアに加えて、一見目立たない歌にも魅力的なものがあった。
  
  微雨すぎて机の下の暗がりを人は見ている音なかりけり

  うすれゆく心のこりは雨上がる路に捨てたるほおずきの花

 一首目、机の暗がりを凝視するこの人に、本当に見えているものは何なのか。怖さに追い打ちをかけるのは、結句でいきなり挿入される「音なかりけり」だろう。この「なかりけり」のフレーズは、四句までの口語的な雰囲気とは位相が異なるし、どの時点から発話されているのか定かでない。すると、机の暗がりを見つめる時間がただ茫洋と浮遊しはじめる。
二首目も時間の重ね方が不思議で、いわゆる「下手うま」のような歌。時間軸に沿えば、①雨があがった、②ほおずきを捨てた、③そこを去りながらもほおずきに心残りがある、④心残りが薄れてきた、という順番になるだろう。でも、実際の歌ではその順番が整理されておらず、「雨上がる」などが現在形で書かれているために、時間軸がぐにゃっと歪むような奇妙な印象を受けるのである。掲出歌に限らず、現在形を多用する文体は、遺歌集『坂』に時間が静止したような安らかさをもたらしている。

  冬の日はわれを眺めて去りてゆくしずかなる刻いま五時をさす

 老齢の日々にあってこのように「われ」を遠景に見つめるような歌も胸を打った。自分がここに在ることへの畏れもあるだろうか。
 小島ゆかりの最新歌集『泥と青葉』も、自己の自在な伸び縮みが眩しい。老父母の介護や東日本大震災をきっかけに詠まれた歌がすでにあちこちで評価されているが、ここでは自己の没入感覚が生きた歌を引いてみたい。

  とかげまだゐるかとおもふ石のうへとかげゐなくてわれ無きごとし

  頭から尾までの遠ささびしからん曇りのしたを縞蛇およぐ

 一首目、この結句には驚く。とかげを気にかけているうちに、とかげへの没入が起きたのか。この何とも言えず不気味でやわらかい「われ」の在り方は作者ならでは。二首目、下句だけなら客観描写のように見えるのだが、妖しいのは「頭から尾までの遠さ」である。外から蛇を見た場合、「遠さ」ではなく「長さ」になるのではないだろうか。「遠さ」は、いったん自分を蛇に没入させ、蛇の頭からものを見ないと出てこない表現なのだ。

 歌集『坂』は霞がかったような時間感覚と自己把握が魅力だが、小島の場合はもっと鮮やかに自己を対象に飛ばし、そして沈める。二歌集の根底にあるのは、この世とそこに生きるものたちへの思慕の深さであろう。

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