短歌時評

運用と手順・杉原一司 / 吉田 恭大

2020年4月号

 杉原一司、という七十年前に二十三歳で亡くなった鳥取の歌人をしばらく読み直していた。この時評が掲載される頃には、杉原一司歌集刊行会から歌集と歌文集が世に出ていることと思う。私も鳥取出身の縁で広報やイベントに協力させていただいている。
 
 杉原一司が現在全国的にどの程度の知名度があるのか、実感としていまひとつ分からない。特に参考にならなかったが、試しにツイッター上でアンケートを取ったところ、回答数118人のうち約半数が「知らない」と答えていた。知らない方は是非、山田航の「トナカイ語研究日誌」による紹介か、ウィキペディアの記事(不完全ながら刊行会が確認・監修をしている)あたりを御覧ください。
 あるいは、塔の会員ではご存じの方も多いかもしれない。塔の紙面では小林幸子の八角堂便り(二〇一二年四月号及び二〇一七年十二月号)、さらに荻原伸による調査と論考「杉原一司のめざめ―〈メトード〉前夜―」(二〇一七年十月号)などで度々言及されている。あるいは直近の総合誌だと林和清の「杉原一司に逢ひにゆく」(「短歌往来」十月号)などもあった。
 歌集は主に鳥取県内の書店と、通販、文学フリマ等のイベントで頒布される。文学フリマの出店にあたりカタログ用の紹介文を書く必要があり、取り急ぎ「モダニズムと前衛短歌、前川佐美雄と塚本邦雄を結ぶ伝説の夭折歌人」という極めて乱暴な説明をしてしまったが、塚本邦雄からその名前を知る、というのが現状では、杉原に触れる最も主要なルートかもしれない。
 私も最初のきっかけは塚本邦雄で、それから三一書房の現代短歌体系を読み、恥ずかしながらそこで初めて杉原が鳥取出身の歌人であることを知った。
 ちなみに、現代短歌体系(第十一巻 夭折歌人集)に収録された「あくびする花」の一連は元を辿ると「短歌」一九五八年八月号の特集「戦後新鋭百人集」に掲載された「初等文法」六〇首であるが、これは杉原の没後、塚本により選ばれたものである。このことは塚本自身が『殘花遺珠』の中で明かしており、杉原の生前の発表作との間にかなりの異同が認められることが分かっている。
 杉原の短歌は、一読すると驚くくらいに塚本そのままに見える。豊富な語彙を駆使したペダンティックな漢語の遣い方と、ほのかな青春性。それを見るにつれ、一般に塚本節と思われているものは実は杉原節なのではないかと思ってしまう。塚本は、夭折した親友を歌の世界の中にだけ生き残らせるべく自らの身を捧げたのではないかとさえ感じるのだ。とは先に挙げた山田航による杉原の紹介文だが、塚本が杉原の影響を受けた、という解釈と同時に、塚本が杉原の中のより自分に近しい一面を世間に伝え残した、という側面も考慮すべきだろう。
 これまで塚本によって広められた杉原一司そのものが、ある意味塚本によって作られたイコンである。この点については今後杉原一司が改めて読まれ、研究が進む上で重要なポイントになるのではないだろうか。
 今回の歌集は、杉原が生前関わった同人誌『オレンヂ』『詩歌祭』『花軸』『メトード』の四つの掲載歌、さらに『オレンヂ』『花軸』に掲載された玲子夫人の歌を収録している。言うなれば本人の手による既発表作のみの掲載である。今後研究が進めば、未発表作品の公開や、塚本と杉原の往復書簡を刊行する、という話も出ている。
 いずれにせよ、今回の刊行を機としてより多くの人に杉原の歌が読まれることを願う。

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