短歌時評

運用と手順③ / 吉田 恭大

2020年3月号

  花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
                               吉川宏志
 
 この歌の主体は結局愛を告げたのか、告げなかったのか、という話題が令和二年の一月、インターネットを中心に盛り上がっていた。
 発端は土岐友浩による砂子屋書房のウェブコンテンツ「月のコラム」。吉川の第一歌集『青蝉』に収録されたこの歌について、
『鑑賞の前提である「否定を用いて、実際には告げることができた」という部分が、いまの若い人には共有されず、愛の告白の歌のはずが、愛を告げたいのに告げられなかった歌として、どうやら読まれているのだという。』
と土岐は述べ、これまで指摘されてこなかった「告げられなかったかもしれない」読みの可能性について言及している。
 ネット上の意見は、特にSNSは群発地震のようなもので全体像を掴むのは難しいのだけれど、先述の土岐の記事から、1月1日「リアリティの重心」と1月12日「(追記)花水木の歌をめぐって」、後は花笠海月の作成したまとめ記事で大まかな流れは追えるかと思う。
 
 読者の側の世代差によって、あるいは普段短歌にどれほど親しんでいるかによって読みの違いが出てきた、というような明快な結論があればいいのだけれど、実際のところそこに有意な差があるかどうか、現段階では判断を保留したい。飯田和馬によるTwitter上のアンケートをはじめ、いくつか興味深い検証や考察はあったものの、結論を出すにはやや早い気がする。無理に風呂敷を畳もうとすると、不用意な世代間の揚げ足取りに援用されてしまいそうだ。
 一連の感想の中では、個人的には濱松哲朗によるコメントが興味深かった。
『読みという次元で考えるなら、これは愛を告げたかどうかというよりも、「あれ」を一回性の例外と捉えるか絶対的運命の一部として捉えるかの違いだと思う。そして、これは読者が前提とする世界や出来事に対する認識の差異でもある。』 (1月7日公開のnote「6のつく日に書く日記(30)」より抜粋)
 
 あくまでこの歌を一首、例えば歌会の場で読むとして、告げた/告げなかったの二つの読み筋が参加者から提示されたとする。やはり「あれ」あたりから議論の交通整理を始めることになるだろう。
 濱松は二つの読みの差異として、読者の側の自己肯定感の高さ/低さを可能性として提示していた。これを歌会の場に強引に当てはめてみるならば、結果的に参加者らの当日のメンタリティによって場の議論の方向が変わっていくかもしれない。
 参加者の体調、あるいは当日の天気や会場の室温など、変数として扱えるものはその場にいくらでもある。そしてその変数を参加者同士が積極的に受容できるかどうか、が、歌会の運用にとって大きな鍵ではないかと思う。
 
 吉川が『読みと他者』で述べた「自分の内部に、仮想的な他者を棲まわせ」ることについて考える。仮想的な他者、とは自分以外の読み筋に対する想像力、と言えるだろう。内省的な想像力を転じて目の前の他者に用いれば、それはそのまま歌会の運用に充てることができそうだ。
 仮想ではなくとも、実際の私たち、実際の他者同士は、それぞれが他者のまま、複数の読み得る可能性をどうすれば共有することが出来るだろうか。そして、それを媒介するはずの短歌、歌そのものはどこまでそれを許容してくれるだろうか。

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