八角堂便り

寄物陳思 / 三井 修

2020年1月号

 昔、私が勤務していた会社に「短歌部」があった。当時、職場の短歌部といえば、国鉄やNHKなどが有名であり、民間会社の短歌部はそんなに多くなかったと思う。しかし、私の会社の短歌部には、結社の選者、編集委員クラスの人も何人かいて、雑誌「NHK短歌」のインタビューを受けたこともあった。メンバーは退職者が多かったが、現役社員もいたので、会社の人事部が公認する社員の厚生活動としての扱いを受けていた。
 その会社の短歌部の中に「地中海」の選者をしていた足立三郎さんという人がいた。お酒好きの豪放磊落な人で、関係会社の社長としてタイに長く滞在していた頃の作品を纏めた『群象巨歩』というユニークな歌集がある。毎回、歌会が終ったあと、会社の近くのパレスホテルのラウンジでお酒を飲みながら先輩たちから様々な話を聞くのが愉しみだったが、特に足立さんから実にいろんなことを教わった。その中でいまだに忘れられない言葉がある。「寄物陳思」という言葉である。よみかたは「きぶつちんし」であるが、返り点を打って訓読みすれば、「ものによせおもいをのぶる」である。「陳」という字には「陳謝」「陳述」というような言葉があるように、「述べる」という意味もある。この「寄物陳思」は、万葉集の相聞歌を表現形式から分類した名称の一つであり、「正述心緒歌」(ただにおもいをのぶるうた)と対応する言葉である。
 「寄物陳思」という言葉で、足立さんがしきりに強調していたのは、概ね以下の通りであったと思う。短歌とは、物に寄せて思いを述べる詩形である。物を詠っていても、それが単なるスケッチであってはいけない。そこに作者の深い思いが託されていなければならない。逆に、作者の思いがそのまま主観的な言葉で直接的に述べられているだけの作品もよくない。それは必ず何か具体的な物に託されて表現されなければならない。大体そんな感じだったと思う。
 以来、この「寄物陳思」は私にとっても作歌理念の一つとなった。今でも常に、気持ちをそのまま生の言葉でストレートに表現してはいないだろうか、或いは、見えたものを写真のように忠実に写し取っているだけではないだろうか。そこに自分の気持ちが果たして込められているだろうか、そのようなことを常に考えながら作っている。
 そのようにして、その時の自分の気持ちを、具体的な物や光景に託して詠った作品を読者がきちんと読んでくれて、直接的には言っていない自分の気持ちをきちんと感じ取ってもらえるとやはりうれしい。また、自分が読者である場合も、表現されている物や光景から、直接的には表現されていないその作品を作った時の読者の気持ちを読み取ることが出来れば、それもまたうれしいことである。

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