短歌時評

運用と手順① / 吉田 恭大 

2020年1月号

 二〇一九年の十月。縁あって、奈良で短歌創作のワークショップをやる機会をいただいた。対象はこれまで短歌を作ったことのない方々。とはいえ、美術や演劇の領域に関心のある人たちが参加するイベントなので個々の言葉や表現に関する感度は高い、というある意味理想的な環境であった。
 参加したイベントは「奈良・町家の芸術祭はならぁと」という、奈良県のいくつかのエリアに跨って開催されている地域芸術祭で、企画自体は二〇一一年から規模を広げつつ続いている。その中で二〇一九年度の会場の一つとなった宇陀松山地区の中、かつて書店を営んでいた町家の一室を使いワークショップを開催した。ちなみに宇陀市には、柿本人麻呂が同地で詠んだとされる歌にちなみ「かぎろひの丘万葉公園」という施設もある。
 内容としては、参加者に携帯電話で開催地域の中の風景を写真に撮ってもらい、その写真を元に各々が短歌を作る、というもの。変則的な吟行の一種ということになるだろうか。最終的には計三回のワークショップを通じて、地元の方、作品制作のために滞在しているアーティスト、イベントの来場者と、さまざまな視点の写真と歌が集まった。
 芸術祭では、地域の複数の場所で展示や上演などの企画が同時多発的に開催される。短歌ワークショップは、準備も場所もほとんど要らない上に参加型のコンテンツということもあり、メインの企画には足りないが、オプションの一つとしてはバランス的にも丁度良かったように思う。
 
 企画段階で、またワークショップ中に一番苦心したのが、作文教育的なイメージからいかに短歌を切り離すか、という点であった。
 学校教育の中の作文には、たとえ題材が自由であっても、教育的(あるいは道徳的)な意味合いでの「模範例」がどこかしらに存在する。読書感想文はじめ、作文、短詩や標語の類まで、各種コンクールやコンテストは、どのように正解に寄せられるかが参加者に求められてる。(ここでは敢えて語弊のある言い方をした。現在の教育現場でそのような指導は直接的にされていないと聞くし、実際私が子供の頃にご指導賜った先生方も、生徒に模範解答を押し付けるような教え方はされていなかった。)
 実作の段階でどこかしら「正解」や「良いこと」を言わなければ、という意識は、多くの人に刷り込まれているようだ。以前スタッフをやっていたカルチャー教室でもその傾向はあったし、新聞雑誌の各種の投稿欄、結社誌においても言わずもがなである。
 「良いこと」を言おうとする歌は大体成功しない。これは別に作者のモラル云々ということではなく、一首に対し語を割くべき情報の、優先順位の話だ。
 今回は歌作に入る前に視覚情報(この場合、写真に写っているもの)を書き出し、それを中心に一首を組み立てることを行った。まず最初に擬似的な写生のプロセスを配置することで、参加者の「良いことを言わなければ」「何か意味のあることを言わなければ」という主題設定に対する過剰反応を抑制する。「目に写る物を言葉にするだけでいい」という前提は、参加者の「表現」に対するある種の恥じらい、歌作へのハードルを下げる効果もあった。
 ワークショップではある程度有効に機能することができたが、短歌でいかに人生に寄せずに写生に持ち込めるか、という点については、引き続き検討したい。結果的にこの欄では短歌の話をしなくなるかもしれないが、その辺はどうかご容赦ください。

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