短歌時評

ある種の「正しさ」について / 濱松 哲朗 

2019年9月号

 「現代短歌」八月号のパネルディスカッション採録「辺野古、表現の多様性を求めて」の中で古堅喜代子は、沖縄における社会詠について「私たちには、表現法を模索することよりも、とにかく伝えることが重要でした」と述べている。古堅のこの発言には、自分たちには身近で深刻な問題を歌に込めても本土の読者は十分に理解してくれないという、本土(≒中央)に対する沖縄(≒地方)の強い諦念が含まれているように筆者は読んだ。無論、みずからの日常に取材した〈私〉を歌の中で作り上げる、という歌の作り方そのものは丸っきり多数派のそれであるわけだが、むしろ作歌の方法論が同じであるからこそ、読みによって顕在化するマイノリティ性、分かってもら\\\\\\えなさ\\\を意識せずにはいられなくなるのではないか。そして、詠われた内容が作者にとって身近な問題や日常の物事であればあるほど、読者に伝わらないことは単なる技術的問題ではなく、社会構造そのものや、個々人のディスコミュニケーションの問題へとスライドするだろう。むしろ、そちらの問題が短歌を通して表面化ないし局所化しているのだと見るべきではないだろうか。
 だからこそ、黒瀬珂瀾による「歌を表現したときに、正しくなってしまう、ということの危うさ」についての指摘は大きな意味を持つ。「政治や社会が正しくなく見えるとき、そこに抗うと歌自体が正しくなってしまう」というのは、強い主張によって歌が標語化するといった表面的な話に限ったことではない。歌の中に詠み込まれ仮構された〈私〉が抵抗の手段として、何らかの場において共有された「正しさ」を希求すればするほど、「その正しさをとりまく状況、または、そこへの抗いや戸惑い」といった個人の心理的ないし状況的側面が捨象され、〈私〉が「正しさ」の主張そのものと一体化≒全体化してしまう。すると、一首の中で〈私〉についての記述が「正しさ」の記述によって追い立てられ、遂には捨象されてしまうことになる。酷な言い方をすれば、社会詠におけるスローガン化は、〈私〉が予定調和的なヒロイズムに逃げることで生じるのではないか(勿論これは短歌に限った話ではなく、文学その他における「主人公」像の問題でもあるわけだが)。確かに、吉川宏志が指摘する通り、「正しいことを歌ったら歌にならない」というわけでは決してない。だが、「正しさ」自体も思想信条のひとつであり、「正しさ」に飲み込まれて失われる個人の多様性というものも、残念ながら存在しうるのである(例えば筆者は、批判が批判\\である限り、批判される側によって担保された存在であるという構造上の事実の「正しさ」を常に苦々しく思っている)。
 社会詠に関する話題になるとやはり『いま、社会詠は』(青磁社、二〇〇七年)と『時代の危機と向き合う短歌』(青磁社、二〇一六年)の二冊を思い出す。後者に採録された二〇一五年九月のシンポジウムで、既に黒瀬は次のように発言していた。「定型という強みを持っている歌人は、定型との親和を持って、散文に支配され過ぎた世界から、韻文を取り戻す力や試みが必要なのではないかという気がします」「歌ひとつが届くことも大事ですが、歌について論じ合うことで、一首なり、連作なり、一冊なりを巡って、どういう人の、どういう意見が交わされ、どういう思考が回ってきたのか、その過程を差し出していく営為が必要なのではないかなと思います」――。ある種の「正しさ」に固執しすぎて全体化した解釈共同体ではなく、個々人の多様性を保証しつつコミュニケーションを担保する、より開かれた解釈の運動はいかにして可能であるか。何も沖縄に限った話ではないはずだ。

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