短歌時評

評論についての時評 / 濱松 哲朗 

2019年7月号

 ちょうど塔創刊六十五周年記念評論賞が発表されたところでもあるので、今回は評論について、評論を書くということについて考えてみたい。
 受賞作である穂積みずほ「郷土の歌人としての木俣修」について、吉川宏志は選考座談会で「とても面白かったんですけれども、「文学評論」とすると、もう少し木俣修の作品世界を論じてほしかったという思いはあります」と述べていた。筆者も同意見だ。それでも、木俣の歌や散文の中から郷土の文人の姿を追う文章はスリリングで、澤村斉美の言を借りれば「実証的に調べて裏づけを取って論を組み立てていくという点で」読み応えがあった。選考会では郷土史研究的との指摘もあったが、それは言い換えれば穂積の受賞作に、地域の文学館や図書館の企画展のような順序の明快さが、論理ないし著述の明快さとして現れていた、ということではないだろうか。木俣作品や滋賀の風土を知っている者が読めば、聖地巡礼的に楽しむかもしれない。だがそれは同時に、穂積の文章がより評伝的・伝記的に傾きがちであることの証左でもある。実証的な調査(そもそもこれをやり抜くことがどれだけ大変なことか!)によって木俣の作品世界が如何に立体的に、多角的に読めるようになるか、穂積にはぜひ論を積み重ねることで示していってほしい。
 評論を書くという行為は、みずからの問題設定に基づいて検証し、その際の思考の軌跡を言葉によって書き表すことで他者(読み手)に伝えようとすることであると筆者は考える。問題設定、という言葉が仰々しければ、気になること\\\\\\、くらいに置き換えて良いだろう(言葉や物事を嚙み砕いて理解しようとする行為そのものが、評論的思考の第一ステップでもある)。今回、応募総数が僅か十三篇だったこともあってか、選考座談会の最後の方はほとんど評論入門のようになっていたが、「評論の書き方がわからない」という意見の内実は、「問いの立て方がわからない」とか「そもそも評論を読んで、わかったと思ったことがない」といった、より根本的な困惑に由来するものではないだろうか。
 砂子屋書房HPの「月のコラム」で田中槐は、「現代短歌」五月号の特集「前衛短歌考」において「特集のメインの評論を書いている井上法子、雲嶋聆、三上春海の三人は平成生まれ」であることや、特集中のエッセイ「前衛短歌の〈私的定義〉」を「執筆しているメンバーもなかなか斬新な人選であった」としている。瀬戸夏子や寺井龍哉が連載を持っていることを鑑みても、確かに「現代短歌」は田中の指摘する通り、「新しい短歌評論の書き手を育てたい、という思い」があるのだろう。とはいえ、雲嶋・三上・寺井の三人は現代短歌評論賞受賞者だし、井上は現在「現代詩手帖」の短歌時評を担当している。瀬戸も待望の評論集『現実のクリストファー・ロビン 瀬戸夏子ノート2009-2017』(書肆子午線、二〇一九年三月)が出たところだ。確かに皆若手であるかもしれないが、まったくの未知の新人、というわけでは既にない。
 総合誌を見渡してみても、繰り返される入門企画は作歌入門か作家入門のどちらかで、評論の、しかも書く方についての入門企画はあまり見たことがないように思う。短歌評論の公募も、投稿を歓迎する雑誌がある一方で、新人賞に関しては選考委員(=評価基準)にここ数年変化の見られない現代短歌評論賞一択だ。新しい書き手を待望しながら発掘や育成には消極的、自分たちがそうしてきたように勝手に育てば良い、という発想は、少々利己的に過ぎる。こうした上から目線こそが、評論に対する壁を作っているのではないか。

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