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カテゴリー "真中朋久"

仕事場のあちこちで、訓練情報を受信したスマホが鳴る。きょうは9月1日。防災の日だ。関東大震災の日だ。

   *

アララギ発行所『灰燼集―大正十二年震災歌集』(1924年)に、町山正利の作品が2首載っている。
島木赤彦に短冊を書いてもらう町山正利である。茨城県高鈴村(現日立市)在住。

ひむがしの夜空に炎たちのぼり現世のすがたいまは悲しも
    復興の街頭
すでにして家々建てば灯火に人のこゑさへまじりてきこゆ

雑誌「アララギ」1924年2月号(震災歌號)では、こうなっている。4首掲載。

ひむがしの夜空に炎たちのぼり現世のすがたいまは悲しも
地震の夜戸外(と)に出でて桐の葉蔭よりいたく傾く天の川を見し
大地震に都ゆ來らしこの町にかつて見慣れぬ人に逢ひけり
    復興の街頭
すでにして家々建てば灯火に人のこゑさへまじりてきこゆ

いつもは島木赤彦選で掲載される町山作品が中村憲吉選の欄に載っている。『灰燼集』のために抄出したのは島木赤彦か中村憲吉か。
町山のこのへんの作品は、地味といえば地味。『灰燼集』に採られた1首めは、むしろ伝聞に依存して漠然とした感じの作品と言うこともできよう。4首めも新聞報道をもとにしているかと言われれば、そうかもしれない。

2首めはルビの「と」が「戸外」についているようにも見えて「地震の夜/戸外(と)に出でて桐の/葉蔭より/いたく傾く/天の川を見し」だろうか。昼に地震は感じで、その後も余震がつづく。しかし作者の住む北関東の海辺の町からは「ひむがしの夜空に炎たちのぼり」は見えず、ただ星空が広がっていた……ということだろう。地震があって「天の川」が変化することはないはずだが、不安を感じながら、ふだん見ていなかった夜空を見上げていることが、よく伝わってくる。
町山正利と、彼の住んでいた場所にこだわって読むとき、3首めが興味深い。「避難」の歌はほかにもたくさんあって、悲嘆にくれるとか疲れ切った様子の避難者の様子など、さまざまに詠まれている。これなどはまったく地味な作品であるけれど、おそらくは縁故を頼ってやってきた避難者の存在に、心を動かされるところがあったわけだ。

「震災歌集」的なものをまとめるのは大事なことであるけれど、そこに選ばなかった歌なども、それぞれに、なにがしかの読みどころがあるものだ。

   *

時間がたって、あらためて感じられてくることとか、ずっと感じ続けていることとか、そういうこともあるだろう。合理的な判断はこうだ!と言われて、あらためて苦しむこともある。
塔短歌会・東北の「5499日目」は、息の長い活動。じっくり読んでゆきたい。

ヒグマからダッシユで逃げる夢を見たかつての地元の町並の中/逢坂みずき

山田から大谷海岸流れ着く小さな骨の旅の長さよ/大林幸一郎

小さき揺れを感じるたびに目に見えぬものを怖れて十五年過ぐ/小林文生

「死ねば欠員だから災害従事者は生き残るのが義務だ」と教わる/佐藤涼子

二度ありし大地震ののち四月分の十首を揃う意地にて揃う/垣野俊一郎『くらやみにひらく』

垣野さんの歌集の冒頭は10年前の熊本地震。一連のタイトルは「前震と本震のあとで」であり「二度ありし」はそのこと。
 
10年と言う短い期間で、ふたたび、さらに大きい?地震に見舞われるというのはたいへんなことです。

熊本周辺のみなさんご無事でしょうか。
大きな被害がなくても、生活にご不便を感じていらっしゃるでしょうし、責任のある立場の方は多忙をきわめているのではないかと思います。

元気を出すためにも詠草を「意地にて」揃えるのもよいと思いますが、まずは安全確保でしょうか。

暑さもきびしいなか、お気をつけてお過ごしください。

島木赤彦が最晩年に湯治に訪れた「鮎川温泉」について、少し前に書いた。

短冊を書いてもらった町山正利について、ちゃんと「アララギ」を読めば何か書いてあるだろうと思って、そのままにしてあったのだが、当時の「アララギ」にあたってみれば、やはり、ある。そこにあるだけではなく、『日立市史』の、その土地の短歌に関して功績のあった3人のうち1人として名前もあがっている。
もう一歩調べればわかることだが、とことん調べて書こうとすると、けっきょく書けなくなるので、わかったところまで書くとか、書きながら考えるとか、そういうスタイルで行きたいと思う。「そんなこと知らんのか」というご指摘をいただければありがたい。

さてその町山正利であるけれど、「アララギ」で島木赤彦選歌の欄、赤彦没後は一時的に藤澤古實、土田耕平の選歌を受けたりするが、基本的には斎藤茂吉の選歌欄に出詠している。戦時中までは「アララギ」でたどることができたが、戦後は「新泉」ほか、いくつかの雑誌に所属していたらしい。1930年前後などは、茂吉選歌欄の佐藤佐太郎と同じページに肩を並べていたりもした。

赤彦と面会した時の歌、そして訃報に接した時の歌を引く。

鮎川の冬の温泉(ゆ)宿に先生といまし正しく逢へる嬉しさ/「アララギ」1926年4月
名にし負ふ鮎川の温泉(ゆ)の驗しさへなかりしものか遂に逝きませり/ 同 6月

「正(まさ)しく」「驗(しる)し」だろう。

10月号(島木赤彦追悼号)には「鮎川で逢うた先生」と題しての文章が載っている。

鮎川濱の島崎館といふ旅館に、御滯在中との先生からのお便りを戴いたのは、一月十日の夕暮だつた、私の住んでゐる助川町からは、二十五町許りへだつた鮎川濱は、夏期ならばともかくも、冬期中はどの旅館にも、客などは滅多にない程淋しいところ(略)先生は何にお出でになつたのだらう、と疑問に驅られながら闇みの中に吠ゆる樣な冬海の荒い浪音を聞き乍ら、私は畑中の淋しい夜道を、急いだ

25町=2.7km程度。若者の足で急げば30分かからないだろう。鮎川温泉はそれなりに繁盛していたのかと思ったが、そうでもないらしい。夏は海水浴を兼ねて宿泊客が多くなるけれど、冬は何もない。湯治をするといっても「名にし負ふ」というのは、いささか文飾という感じになるのではいか。
呼び出しただけのことはあって、赤彦はずいぶん町山青年(明治32年/1899年6月生、このとき26歳)のことを気にかけていたらしく、暖かい言葉をかける。

「君の歌はお母さんや、姉さんの事を詠まれたのが、いつも生きてゐますね、あの調子で進んでゆかれると好い、そしてあまり間口は擴げない事です、歌會なぞへ出席しますか、實は私は歌會はあまり好きぢやないんです、歌會へ出席したつて、決して淺くなればとて、深くなることはありませんよそれよりも、三四人位氣持の合つた同志がしんみりと歌の話でもした方が、どれ丈け好い結果を得るか知れません、アララギの連中も時々はやりますがね、……(後略)」

そのまま、「あの調子」で進んでゆくとよい。それはよいとして「間口は擴げない」と言う。そしてまた歌会なんか役に立たないというようなことを言ったらしい。もちろん、間口を広げたり、いろいろ知ったかぶりの批評にさらされると動揺することはある。ふりまわされて自分を見失う人もいるだろう。だが、それでよかったのか?とも思う。
町山自身も、言葉通りにそれを墨守するわけではなく、やがては地域の他結社の人ともつきあうようになるし、地元の歌会のまとめ役なども担うようになるわけだが。

ところでこの時代の「アララギ」の選歌欄は、選歌しながらときどき短評がさしはさまれる。赤彦の選歌欄ではこんな感じ。

「電氣文藝の貴作の方が生きてゐた」1921年6月
「赤曰。少數の歌に力を籠め給へ。」1922年2月
「赤曰。文字分るやうに願ふ。」1924年7月

一つめは、おそらく「電氣と文藝」。現物を確認することはできていないが、寺田寅彦が執筆していたことなどが知られている。投稿欄の短歌を島木赤彦が選んでいたらしい。町山正利は日立製作所に勤務していたので、あるいは「電氣と文藝」の投稿から、島木赤彦や「アララギ」に接近したということかもしれない。それにしても、他の雑誌の作品のほうが「生きてゐた」というのも、なかなかな短評である。
「赤曰」というのも面白い。「少數の歌に力を籠め給へ」は赤彦らしい。そして「文字」。達筆だったのか癖字だったのか。

さらに、赤彦没後にもいろいろ書かれている。

「假字遣ひ違ひ多し。辭書引かれたし」1926年7月 藤澤古實選歌
「評。文字を楷書に願ふ。假名づかひ勉強を乞ふ。」1928年10月 斎藤茂吉選歌

詠草を掲載している直後に、直接に、つまり名指しでの注意である。昨今の雑誌では、なかなかこんなふうにはしないだろうが、当時としても、「書かれてしまった」と受け止めたのかどうか。

ともかく、少々のことにはめげずに歌を続けることは大切なことだ。

読めるような字で丁寧に、仮名遣いなどは確認しながら間違えないようにしてほしいとは思うが。

鮎川温泉のこと

徳川光圀『常山詠草』に、こういう歌がある。

けふはいざ花にあるじをゆづり置きて我もまとゐの數に入らなむ/徳川光圀

光圀の歌については、いずれまとめて書くつもりをしているのだが、この歌なども、なかなかに良い。春の花の時期には必ず思いだす歌としていちばんに書きぬいたもののひとつ。
亭主として客人を迎え、庭の花の見事さを誇らしげに見せながら、自分もまた客人たちとの円居に加わろうという。現代よりも立場の上下がずっとはっきりしていた時代の、主人と客である。
この場の客人は、詞書によれば「檀那院僧正畠山下總守などとぶらひきて翫花といふことを」とある。「檀那院僧正」というのは、日周とか日乗といった日蓮宗僧侶ではないかと思う。「畠山下總守」は畠山義寧。「松之廊下事件」(「赤穂事件」「忠臣蔵」の一場面とか 元禄14年=1701年)の際にその場に居合わせた人と伝えられる。

花見の宴が事件より前なのか、後なのかもよくわからないが、松之廊下事件をさかのぼること十五年ほど前の江戸城での刃傷沙汰(堀田正俊が稲葉正休に刺殺された事件、1684年)の際に、光圀が「実行犯をその場で切り殺してしまったのでは実態解明ができないではないか!」というようなことを言ったらしく、その反省があったのかどうか、松之廊下では、浅野長矩(内匠頭)は梶川頼照(与惣兵衛)らによって取り押さえられた。
いっぽう吉良上野介は畠山義寧らによって別室に運ばれて介抱される。その場にいた医者は、どちらかといえば内科で刀傷治療の応急処置も難しく、急ぎで呼び出されたのが南蛮流の栗崎道有。金創(刀創)治療の専門家である。畠山義寧の書いた至急呼び出しの手紙が残っている。そしてまた栗崎道有が吉良上野介を治療した記録も残っている。

これがじつに面白い。少し検索すると翻刻して紹介されているテキストを読むこともできるのだが、まず「熱湯」で傷を洗ったとあることに驚く。現代語の「熱湯」ならば消毒に使うのかと思うが、どうやら当時は火傷をしない程度の湯も「熱湯」であったらしい。創口の程度とか縫合したということも書かれいる。

その場の様子を想像していると、何やら言葉が歌のかたちになってくる。不完全な拙作を晒すのもどうかとおもうが、

吉良殿の額六針背は三針(みはり)薄め茶を傷口に……

のように四句めまでつくって、はたと困る。翻刻された原文は「ウスメチヤヲ付フタニモ薬リヲ付ル」とあって、「ウスメチヤ」は現代語訳では「薄め茶」とある。縫合のあとを洗うように使ったのかと理解して「薄め茶に傷口を洗へり」とかしてみた。そういえば茶にも抗菌効果があると気付いて心が動くわけだが、しかし「ヲ付」はどういうものか。

あれこれ悩み、栗崎流金創術に関する論文などを拾い読みしたりして、もしかしたらそういうことかとおもったのは「メイチヤ」という語彙。京都大学所蔵版「栗崎流外科専方」を見ると、そこそこ頻出する。これは中国語由来の読み方の「棉條」のことであるらしく、細いものは膿汁を吸い出したりするような場面で使われるらしい。「棉條」は現代中国語では女性の使う生理用品のことを指すようだが、機能は近いだろう。

薄め茶にあらず薄棉條(ウスメイチヤ)今ならば傷口にあてるガーゼのごとし

もとより、医学や医学史の専門家ではないから、確実なことは言えないが、私個人としては、すこしすっきりした。ガーゼをあてて、そのうえから薬をつけるというのも、傷口の状態とか薬の性質によっては、あるのではないと思う。

わが家の応急処置セットの中にあるものならば、「滅菌パット」が、似ているような似ていないような。

参考
http://chushingura.biz/siryo/siryo02b.htm
http://jshm.or.jp/journal/64-4/64-4_note_1.pdf
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002121

ときどきお世話になる病院。歩ける距離だが、送迎バスが近所までまわってくるので、それに乗ってゆく。
病院に着くころに救急車に追い抜かれ、救急車の後ろについて門を入ることになったりする。

いま「急患」と言えば、だいたい救急車を呼ぶような場面。
そうでなければ「休日夜間受付」を掲げる医療センターのようなところだろうか。

そういえば、昔は町中の開業医の看板に「急患随時」と書いてあるところは多かった。
今でも掲げているところはあるかもしれないが、だいたい自宅と診療場所は別だったりして、時間外に行っても誰もいないようなところが多くなった。

急患の深夜のベルに怯えつつ目覚むれば反射的に立ちあがりゆく/地崎登美子『きらめく海風』
急患の戸をたたきゐる音きこゆ今日日曜の夜をこもりゐて/小林克郎『どくだみの花』
ひとりだにおとづるる友の気配なく連休に数人の急患を診る/林宏匡『ニムオロのうた』

こんな歌を見ると たいへんだったのだなあ と思う。救急患者が運び込まれる大病院の当直医師もたいへんだと思うが、自宅で開業している医師は24時間365日、そこにいる限りは当直勤務をしているようなものだ。
地崎さんは御夫君が医師。出かける準備を手伝わなければならないという感じか。

殴りつけし妻の頬の腫れ診て呉れとがたがた顫へ真夜を男来つ/岡 和一郎『鬼面川』
診察をへてまかづる吾を見送るとはらから五人戸口に並ぶ/同『雪と雁』

岡和一郎は常磐炭礦の病院に勤務していた人。鉱山だから、みなさん荒っぽい。家庭内暴力といえばそういうことであるけれど、医者を頼って駆けこんできた男の表情も浮かぶようだ。二首目の患者は《くりからもんもん》の人。「はらから」は別の場所の抄出では「兄弟」だったので子どもたちかと思ったが、あらためて読めば血縁とはちがった紐帯をもつ人たちのようでもある。

6月30日。今年も水無月をいただく。自家製(私がつくったのではない)。型枠の都合でちょっと長い三角形。
写真はここ数年のモノを並べてみた。

和菓子「水無月」の出てくる歌をいくつか。
まずはお店で買う歌。

京都出町(でまち)菓子舗ふたばの〈みなづき〉をとほくおもへり六月晦日/田宮朋子『雪月の家』
母の好きな水無月を買ふ今出川千本上がつた塩芳軒(しほよしけん)で/石川路子『凍る相聞』
柿若葉艶増す頃の堀川は中立売で食みし「水無月」/家門正『茫洋の波』
白川の流れの角を右にそれ「みなづき」ふたつ路地に買いたり/井田光美『青空のかず』

「ふたば」は豆餅が名物だが、この時期はやはり。
「塩芳軒」は「今出川千本上がつた」つまり「中立売」で、家門さんのもそこかもしれない。
井田さんの「白川の流れの角を右にそれ」はどこだろう。岡崎とか三条界隈にも伝統のある和菓子屋さんはありそうだ。

半年の邪気を払うと水無月のつもごりに食べる〈水無月〉うまし/古賀泰子『木造わが家』
「水無月(みなづき)」の三角形を皿に取り京・北山の氷室(ひむろ)をおもふ/栗木京子『南の窓から』
真夏日と終はらぬ戦なげきくる水無月を買ふわれに店主は/安永明『サマータイム』

美味しいものを食べて、今年後半も元気に過ごしましょう。
世界が平和でありますように。平和になりますように祈りつつ。

5月30日、31日の全国大会。みなさんおつかれさまでした。
地元でご準備いただいたみなさん、スタッフとして大会を支えたみなさん。ありがとうございます。

良い会場で、とくに宍道湖が眼前に広がるという環境は、とてもよかったです。
秋にはぼちぼち、みなさんの収穫=歌が誌面に載るのではないかと期待しています。

さて、今回のことではありませんが、池本さんの歌集に、こんな歌を見つけたので紹介しておきます。

宍道湖の上空に初夏の雲ひかる各地より集う百人の歌会/池本一郎『藁の章』

百人も集まれば、かなり大きな歌会。講師は、近藤芳美氏であったらしい。
朝日歌壇の選者をしておられたから投稿している人なども参加したことだろう。

講師席の近藤芳美肘つきて黒き牡牛のごとく座れる
八十に近き芳美よ学生の一途にも似て口早なるよ
「人生が歌われてない」くりかえし短く激し芳美の歌評
容赦なき芳美の評に傲然と席立ち帰る一人がありき

厳しい批評だった様子。
最近は、なかなかそういう厳しい批評はしなくなった。

いいのか。よくないのか。それはわからない。

喫茶室にくつろぐ芳美みずうみの夕陽に眼鏡の目が笑いいる
考えてしまうやさしくさりげなく「田舎に帰って何をしてるの」
生涯を芳美と歩み七十にて逝きし高安国世くちおし

おそらく、池本さんは主催者のひとり。

近藤芳美も、高安国世の弟子としての池本さんを心にかけていた様子。
 
迫力のある批評をする近藤芳美に接して、なおさら亡くなった高安国世のことが思われる。

人が人に出あえば、心が動く。

歌に残してあれば、後の世の誰かの心を動かすこともある。

そういう縁(えにし)なども思うのであります。

3月の最後の土曜日、北摂歌会のみなさんと吟行に出かけました。京都市動物園。
その報告はまた「方舟」や「歌会記」として誌面に載ります。

次のつぎの日曜午後と言い合わす大人ばかりで行く動物園/石本照子『山法師』

今回は日曜ではなくて土曜。大人ばかり。
参加者のそれぞれの作品は、夏頃には概ね発表されるのではないかと思います。お読みいただければありがたいことです。
ここでは、動物園を題材になっている作品をいくつか。

動物園寂(じゃく)として暑し檻ならぬ切符売場に切符売る女(ひと)/高安国世『虚像の鳩』

まず、切符を買わなければなりません。切符は、今は券売機。ただ、ここの券売機はいささか反応が鈍く、タッチパネルを〈げんこつ〉で軽く叩かなければならない状態。何とかしてほしいものです。

水浴びの象の嬉々たる遊びぶり共感す子供も子供の父も/内藤定一『鳥の国より』

ばっしゃーん とゾウが水に入れば、これはもうホモサピエンスの歓声があがります。

群れながら女の湯浴みするやうな王子動物園フラミンゴの池/石原安藝子『モナリザの声』

ここの動物園のフラミンゴのなかの最高齢は60歳を超えているとか。飼育下ではけっこう長生きするとはいえ、なかなか。ずっとここにいるのか……と思いを寄せる人もいらっしゃいました。
面白いのは、鏡があること。数の多い群れで生活する鳥なので、鏡で数が多く見えるようにしているのだとか。
なんだか、鏡があるということも大浴場のようです。

吾子がゆく動物園の春の雨傘かぶりわれもゆかましものを/三ヶ島葭子『三ヶ島葭子全歌集』
癒えむ日は動物園に伴(つ)れなむと兒に言ふ妻を疑はざりし/鈴江幸太郎『海風』
迦陵頻伽の声におびゆるおさな児は在りし世に動物園を知らない/澤辺元一『燎火』

動物園の歌を探していると、寂しい歌、悲しい歌もけっこう出てきます。
病気のために娘(倉片みなみ)といっしょに動物園へゆけない三ヶ島葭子、病没した妻の最後の日々を思う鈴江幸太郎。
そして澤辺元一の亡き子を偲ぶ歌。幼くして亡くなったので動物園へ連れて行くこともなかった。


動物園といえば、この歌。

動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや/伊藤一彦『月語抄』

しばし鶴のところで、表情を窺ってしまいました。

佐佐木幸綱『群黎』冒頭「動物園抄」も忘れがたい作品群です。その末尾

荒々しき心を朝の海とせよ海豹(あざらし)の自由いま夢の中/佐佐木幸綱『群黎』
                 自由を与えないで下さい 〈出口なし〉

注釈のように「自由を与えないで下さい」「〈出口なし〉」がつく作品。
ちゃんと出口があって帰ってくることができました。

覚えてもらう必要があることを短歌形式にすることがある。古くは「釈教歌」とか「神祇」の類。
近代以降でも宗教指導者が夥しい短歌をつくっていたりすることもある。
あるいはまた志述。幕末の志士であったり、左派的な社会運動の中で詠まれる歌とか。

もうすこし実用的な場面で、標語の類は、だいたい575形式とか短めのものが求められるが、内容が込み入ってくると、短歌形式が選択される場面がある。

最近読んでちょっと面白かったのが近世の本草学における「食物本草要歌」というもの。畑有紀氏の論文「和歌形式の食物本草書の変遷――『永代重宝記宝蔵』所収「食物本草要歌」翻刻と解題――」(食文化研究 No.17, 2021)に翻刻がまとめてあって、それを読む。

にんじんはあさ夕しよくし益ぞある五さうおぎなふものとしるべし

かな書きが多く、仮名遣いも明治以降の標準的な書き方でないが、畑氏の注記も参考に改めれば「人参は朝夕食し益ぞある五臓補ふものと知るべし」。人参に栄養があることは当然だが、朝夕食うというほどによいものなのか。
写真は冷蔵庫にあったもの。いまの時期、鹿児島からの入荷が多いらしい。

覆盆子(いちご)平あまくどくなしひいによし女しよくしてくはひにんとなる

「苺平甘く毒なし脾胃によし女食して懐妊となる」ということだが、まず、イチゴが普通に手に入るものであったのか、というあたり。「平」は、とりわけ毒でも薬でもないという意味らしいが「脾胃によし」というものなのか。「懐妊」はいささかおどろく。

蒜(にんにく)をひさしくこのみしよくするなはいかんやふれたんをしやうずる

「蒜を久しく好み食するな肺肝破れ痰を生うずる」。食べすぎはよくないと思うが、胃腸ではなく「肺肝」に影響があると言っている。

鮭こそは身をあたゝめてきりよくますおほくくいてはしゆもつ生(しやう)ずる

「鮭こそは身を温めて気力増す多く食いては腫物生ずる」。食べすぎはよくないと言っている。当時の鮭はどうしていたのだろう。輸送や保存を考えれば塩蔵ものになるだろうから、あるいは塩分のとりすぎか。

現代の感覚からすると、何の関係があるのか?と思うものがあったりするが、当時の食生活なども垣間見られるあたりは面白い。
錬金術と近代の化学・物理学、本草学と近代の植物学や医学のつながりというのは、おりおり振り返ってみると、人間の思い込みみたいなものが対象化されたりする。当時のもうすこし専門的な書物にはどう書かれていたおんか……というようなところに踏み込むと、なかなか奥は深そうだ。検索をしてゆくと、そういうことを研究している人もいらっしゃるだろう。

全国大会の詳細が発表されて、「塔」の巻末にも振込用紙が綴じ込まれました。
注意書きをよくお読みになって、各種手続きの締切に遅れないようにいたしましょう。

書いてあるとおり、振込用紙は会費ではなくて全国大会用。
会費はまた5月とか11月に用紙が挟みこまれます。

ところで、会費のほう。ときどきこの場でもご注意とかお願いとかがあるわけですが、
こんな歌をみつけたので紹介しておきます。

督促をせぬうちは社費を送り来(こ)ぬ年重なれりこやつ歌詠みか/山本友一『花蔵』

短歌結社、団体によっては「社」を使うところもけっこうあります。作者は「地中海」の責任ある立場だったはず。

どうしてもルーズになってしまうという方はいらっしゃるわけですが、そのたびに事務方のみなさんの手を煩わせ、精神的にもなかなかに重荷を増やすことになります。
退会するからもう知らん ではないのですよ。やめるならやめるなりに、連絡をするようにしてください。

さて、山本友一の歌を見つけて嘆息していたら、
きょうはこんな歌に出会いました。

ハイラルの雪野馳けると思ひきや會費請求の端書をわれ書きし/橋本徳壽『赤帝』

「山口幸安戰死」5首中の3首め。少し前に「滿洲事變」の一連があって、「宜戰詔勅つひに下らざる戰に失せし百千のつはものはや」とか、事態への戸惑いなのか、「軍部の暴走」への疑問というのではないかもしれないけれど当時の認識が滲むのが興味深いところ。歌誌「青垣」発行にかかわる印刷工が出征して帰ってこないということも詞書に触れられる。

そしてついに、歌友の戦死という事態に直面することになる。
たまたま会費請求のはがきを出したところだった。

いろんな事情のところに、知らず督促をすることもあるわけですが。
 
ともかく、みなさんご協力をお願いします。

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