ブログ

アーカイブ "2026年07月"

相原かろです。

「塔」では、特集「助詞を考える」を企画中です。
(いくつかの論考と公募一首評を掲載予定)

というわけで、塔会員の皆さんからの一首評をお待ちしています。
応募要項・応募先は、「塔」2026年7月号、106ページの募集広告をご確認ください。
(巻末ピンクページの募集一覧からは漏れてしまっています。すみません!)

自作以外の一首について、「助詞」の観点から評してください。
「助詞がない歌」なども面白いかもしれません。

原稿は、毎号の作品一首評のようなスタイルを想定してください(タイトル不要)。
作品の出典も明記してください。
締切は9月15日(火)必着です。
よろしくお願いいたします。

島木赤彦が最晩年に湯治に訪れた「鮎川温泉」について、少し前に書いた。

短冊を書いてもらった町山正利について、ちゃんと「アララギ」を読めば何か書いてあるだろうと思って、そのままにしてあったのだが、当時の「アララギ」にあたってみれば、やはり、ある。そこにあるだけではなく、『日立市史』の、その土地の短歌に関して功績のあった3人のうち1人として名前もあがっている。
もう一歩調べればわかることだが、とことん調べて書こうとすると、けっきょく書けなくなるので、わかったところまで書くとか、書きながら考えるとか、そういうスタイルで行きたいと思う。「そんなこと知らんのか」というご指摘をいただければありがたい。

さてその町山正利であるけれど、「アララギ」で島木赤彦選歌の欄、赤彦没後は一時的に藤澤古實、土田耕平の選歌を受けたりするが、基本的には斎藤茂吉の選歌欄に出詠している。戦時中までは「アララギ」でたどることができたが、戦後は「新泉」ほか、いくつかの雑誌に所属していたらしい。1930年前後などは、茂吉選歌欄の佐藤佐太郎と同じページに肩を並べていたりもした。

赤彦と面会した時の歌、そして訃報に接した時の歌を引く。

鮎川の冬の温泉(ゆ)宿に先生といまし正しく逢へる嬉しさ/「アララギ」1926年4月
名にし負ふ鮎川の温泉(ゆ)の驗しさへなかりしものか遂に逝きませり/ 同 6月

「正(まさ)しく」「驗(しる)し」だろう。

10月号(島木赤彦追悼号)には「鮎川で逢うた先生」と題しての文章が載っている。

鮎川濱の島崎館といふ旅館に、御滯在中との先生からのお便りを戴いたのは、一月十日の夕暮だつた、私の住んでゐる助川町からは、二十五町許りへだつた鮎川濱は、夏期ならばともかくも、冬期中はどの旅館にも、客などは滅多にない程淋しいところ(略)先生は何にお出でになつたのだらう、と疑問に驅られながら闇みの中に吠ゆる樣な冬海の荒い浪音を聞き乍ら、私は畑中の淋しい夜道を、急いだ

25町=2.7km程度。若者の足で急げば30分かからないだろう。鮎川温泉はそれなりに繁盛していたのかと思ったが、そうでもないらしい。夏は海水浴を兼ねて宿泊客が多くなるけれど、冬は何もない。湯治をするといっても「名にし負ふ」というのは、いささか文飾という感じになるのではいか。
呼び出しただけのことはあって、赤彦はずいぶん町山青年(明治32年/1899年6月生、このとき26歳)のことを気にかけていたらしく、暖かい言葉をかける。

「君の歌はお母さんや、姉さんの事を詠まれたのが、いつも生きてゐますね、あの調子で進んでゆかれると好い、そしてあまり間口は擴げない事です、歌會なぞへ出席しますか、實は私は歌會はあまり好きぢやないんです、歌會へ出席したつて、決して淺くなればとて、深くなることはありませんよそれよりも、三四人位氣持の合つた同志がしんみりと歌の話でもした方が、どれ丈け好い結果を得るか知れません、アララギの連中も時々はやりますがね、……(後略)」

そのまま、「あの調子」で進んでゆくとよい。それはよいとして「間口は擴げない」と言う。そしてまた歌会なんか役に立たないというようなことを言ったらしい。もちろん、間口を広げたり、いろいろ知ったかぶりの批評にさらされると動揺することはある。ふりまわされて自分を見失う人もいるだろう。だが、それでよかったのか?とも思う。
町山自身も、言葉通りにそれを墨守するわけではなく、やがては地域の他結社の人ともつきあうようになるし、地元の歌会のまとめ役なども担うようになるわけだが。

ところでこの時代の「アララギ」の選歌欄は、選歌しながらときどき短評がさしはさまれる。赤彦の選歌欄ではこんな感じ。

「電氣文藝の貴作の方が生きてゐた」1921年6月
「赤曰。少數の歌に力を籠め給へ。」1922年2月
「赤曰。文字分るやうに願ふ。」1924年7月

一つめは、おそらく「電氣と文藝」。現物を確認することはできていないが、寺田寅彦が執筆していたことなどが知られている。投稿欄の短歌を島木赤彦が選んでいたらしい。町山正利は日立製作所に勤務していたので、あるいは「電氣と文藝」の投稿から、島木赤彦や「アララギ」に接近したということかもしれない。それにしても、他の雑誌の作品のほうが「生きてゐた」というのも、なかなかな短評である。
「赤曰」というのも面白い。「少數の歌に力を籠め給へ」は赤彦らしい。そして「文字」。達筆だったのか癖字だったのか。

さらに、赤彦没後にもいろいろ書かれている。

「假字遣ひ違ひ多し。辭書引かれたし」1926年7月 藤澤古實選歌
「評。文字を楷書に願ふ。假名づかひ勉強を乞ふ。」1928年10月 斎藤茂吉選歌

詠草を掲載している直後に、直接に、つまり名指しでの注意である。昨今の雑誌では、なかなかこんなふうにはしないだろうが、当時としても、「書かれてしまった」と受け止めたのかどうか。

ともかく、少々のことにはめげずに歌を続けることは大切なことだ。

読めるような字で丁寧に、仮名遣いなどは確認しながら間違えないようにしてほしいとは思うが。

鮎川温泉のこと

子供の頃、絵本はなかなか高価で、ほとんど買ってもらった記憶がない。
どの家庭でも似たりよったりだったので、不満も抱かず、外で泥だらけに
なって遊んでいたのだから、それもよかったのだが。

子供の本を翻訳するようになってから、「絵本のことば」「絵と言葉の関係」も
学ぶため、ずいぶん色々と買い込みました。肌になじんで、何度も読み返したくなる
絵本というのは確かにあり、また絵柄が素晴らしくて、ただ眺めているだけで
心が満たされる、という本もあり・・・。子供の頃、こんな本に触れていたら、
と、少々悔しく思う、という経験もいたしましたデス。

悪い子がいたずらをする場面だけ何度も絵本を読んでほしがる
                  川本千栄『樹雨降る』

子供が絵本と共に暮らす時間の濃さ、を思います。

先日、絵本作家の林明子さんの訃報を耳にしました。私は彼女の絵本が大好きで、
手元に置いて、眺めていることも多かったので、かなり落胆しています。
最近は確かに、新作が出ていないようでしたけど。ご冥福を祈ります。

先回に続き、麻布山善福寺について、ですが、実はこの寺は
安政6年(1859)に初代アメリカ公使館として使われ、
タウンゼント・ハリス初代公使と館員が滞在していたのだそうです。
境内にその記念碑を見ることができます。

ここからアメリカと日本との本格的な交流が始まったわけで、近代日本の
創造を模索していた福沢諭吉が、頻繁に出入りしていたそうな。
それで、この寺には彼のお墓がある、というわけでした。

ところで、この地で暮らしていた公使と館員らは、当然ながら生活の用を
麻布近辺で賄っていたわけです。食材を求めたり、お酒を飲んだりもしたはず。
それらの店舗はもう残っていないのですが、唯一、ハリスの散髪を担った
床屋さんが今も残っている、と聞き驚きました。江戸時代からの散髪屋さん!

前回「東京遊学散歩」についてかきましたが、その「広尾から麻布十番まで」の
散歩会の続きです。有栖川公園で休憩したあと、麻布氷川神社などをめぐり、
各国の大使館が立ち並ぶ地域を抜けて、たどり着いたのが麻布山善福寺でした。
少し高台にあるので、皆で登っていきます。当日の参加者は二十数人ほどでした。
奥にちらっと見える、少々奇怪な建物は、元麻布ヒルズフォレストタワー。

平安時代に弘法大師によって開かれ、鎌倉時代には親鸞聖人が訪れています。
それを機に、浄土真宗へ改宗したらしい。けっこう柔軟(ややいい加減?)
なんですねえ・・・。

境内には親鸞聖人が持っていた杖を逆さに刺したところ、枝葉がついて、
ここまで大きくなった、というさかさ銀杏の木が立っています。都内で
最古の木なのだとか。樹齢750年あまり、みごとです。

ところで、このお寺には、福沢諭吉のお墓もあります。
その理由などについて、次回に書くことにしますね。

先回の記事で触れた、「東京遊学散歩」の会は、私の都立高時代の同級生を中心に、
東京の町の歴史や地理、文化に興味を持っていて、かつお散歩で健康を保とう、と
いう意思を持つ人たちの集まりですが(単に、後の飲み会のため、という人も?)。

毎回、散歩コースと立ち寄り場所、その地域や施設の地理や歴史について、
詳細な説明と地図を掲載したパンフが用意されます。今回のお散歩は
「広尾から麻布十番まで」

これまで、広尾や麻布にはもちろん、出かけたことはありましたが、
駅の周辺だけ、または大使館(そう、この地区は大使館密集地)へビザなどの
申請に行く、という程度。でも、歩いてみると、意外な発見が次々に・・・。

これまでは気づかなかったのですが、意外に起伏の多い地域なのでした。
まさに、こんな歌のとおりでして。

 起伏見えざりし街区の路地に入りて思はぬところに石段がある
              真中朋久『エフライムの岸』

先月、この「東京遊学散歩」の二十周年を記念して、素敵な記念誌も作って頂き
ました。私もかつての日本橋界隈で行われたお散歩会で詠んだ歌を盛り込んだ
一文を掲載して頂きました。あまり熱心な会員ではなかったのに有難いことです。

岡部史です、こんにちは。

こちらは、東京都港区にある有栖川記念公園に立つ、新聞少年の像です。

昭和の中期、新聞配達の場に、多くの少年たちが活躍し、歌謡曲にまでなったのをうっすらと覚えています。
そうした少年たちを顕彰しようと建てられたものらしいのですが。

石道をホールへ急げばゆくりなく「新聞少年の像」にぶつかる
少年の学生服の胸うすし笑むとも言へぬ表情をせる
               村上和子『しろがね』

この作品を思い出したのですが、この有栖川公園の像とは違うみたいです。
だいたい、
私が写した像の少年は、学生服は着ていませんし・・・。それで調べてみると、
村上さんが「ぶつか」った像は、横浜の日本大通りにある像とわかりました。
他に、広島や富山にもこの種の像が建てられている、とわかり、少々驚きました。

私が学生時代にも、新聞店に住み込み、新聞配達をしながら大学に通う学生が
まだ少なからずいたことを思い出します。

都心の有栖川記念公園を訪ねるきっかけを作ってくれたのは、私の都立高時代の
同級生、古屋伸樹君と佐藤由希さんが中心になって活動している「東京遊学散歩
の会」に十年ぶりくらいに参加したからです。なんと、ちょうど先月で、二十周
年になると聞き、驚きました。私は初期の頃の数回を除き、ほとんど参加できて
いなかったのですけど。次回は、その遊学散歩の会について、触れてみますね。

徳川光圀『常山詠草』に、こういう歌がある。

けふはいざ花にあるじをゆづり置きて我もまとゐの數に入らなむ/徳川光圀

光圀の歌については、いずれまとめて書くつもりをしているのだが、この歌なども、なかなかに良い。春の花の時期には必ず思いだす歌としていちばんに書きぬいたもののひとつ。
亭主として客人を迎え、庭の花の見事さを誇らしげに見せながら、自分もまた客人たちとの円居に加わろうという。現代よりも立場の上下がずっとはっきりしていた時代の、主人と客である。
この場の客人は、詞書によれば「檀那院僧正畠山下總守などとぶらひきて翫花といふことを」とある。「檀那院僧正」というのは、日周とか日乗といった日蓮宗僧侶ではないかと思う。「畠山下總守」は畠山義寧。「松之廊下事件」(「赤穂事件」「忠臣蔵」の一場面とか 元禄14年=1701年)の際にその場に居合わせた人と伝えられる。

花見の宴が事件より前なのか、後なのかもよくわからないが、松之廊下事件をさかのぼること十五年ほど前の江戸城での刃傷沙汰(堀田正俊が稲葉正休に刺殺された事件、1684年)の際に、光圀が「実行犯をその場で切り殺してしまったのでは実態解明ができないではないか!」というようなことを言ったらしく、その反省があったのかどうか、松之廊下では、浅野長矩(内匠頭)は梶川頼照(与惣兵衛)らによって取り押さえられた。
いっぽう吉良上野介は畠山義寧らによって別室に運ばれて介抱される。その場にいた医者は、どちらかといえば内科で刀傷治療の応急処置も難しく、急ぎで呼び出されたのが南蛮流の栗崎道有。金創(刀創)治療の専門家である。畠山義寧の書いた至急呼び出しの手紙が残っている。そしてまた栗崎道有が吉良上野介を治療した記録も残っている。

これがじつに面白い。少し検索すると翻刻して紹介されているテキストを読むこともできるのだが、まず「熱湯」で傷を洗ったとあることに驚く。現代語の「熱湯」ならば消毒に使うのかと思うが、どうやら当時は火傷をしない程度の湯も「熱湯」であったらしい。創口の程度とか縫合したということも書かれいる。

その場の様子を想像していると、何やら言葉が歌のかたちになってくる。不完全な拙作を晒すのもどうかとおもうが、

吉良殿の額六針背は三針(みはり)薄め茶を傷口に……

のように四句めまでつくって、はたと困る。翻刻された原文は「ウスメチヤヲ付フタニモ薬リヲ付ル」とあって、「ウスメチヤ」は現代語訳では「薄め茶」とある。縫合のあとを洗うように使ったのかと理解して「薄め茶に傷口を洗へり」とかしてみた。そういえば茶にも抗菌効果があると気付いて心が動くわけだが、しかし「ヲ付」はどういうものか。

あれこれ悩み、栗崎流金創術に関する論文などを拾い読みしたりして、もしかしたらそういうことかとおもったのは「メイチヤ」という語彙。京都大学所蔵版「栗崎流外科専方」を見ると、そこそこ頻出する。これは中国語由来の読み方の「棉條」のことであるらしく、細いものは膿汁を吸い出したりするような場面で使われるらしい。「棉條」は現代中国語では女性の使う生理用品のことを指すようだが、機能は近いだろう。

薄め茶にあらず薄棉條(ウスメイチヤ)今ならば傷口にあてるガーゼのごとし

もとより、医学や医学史の専門家ではないから、確実なことは言えないが、私個人としては、すこしすっきりした。ガーゼをあてて、そのうえから薬をつけるというのも、傷口の状態とか薬の性質によっては、あるのではないと思う。

わが家の応急処置セットの中にあるものならば、「滅菌パット」が、似ているような似ていないような。

参考
http://chushingura.biz/siryo/siryo02b.htm
http://jshm.or.jp/journal/64-4/64-4_note_1.pdf
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002121

ときどきお世話になる病院。歩ける距離だが、送迎バスが近所までまわってくるので、それに乗ってゆく。
病院に着くころに救急車に追い抜かれ、救急車の後ろについて門を入ることになったりする。

いま「急患」と言えば、だいたい救急車を呼ぶような場面。
そうでなければ「休日夜間受付」を掲げる医療センターのようなところだろうか。

そういえば、昔は町中の開業医の看板に「急患随時」と書いてあるところは多かった。
今でも掲げているところはあるかもしれないが、だいたい自宅と診療場所は別だったりして、時間外に行っても誰もいないようなところが多くなった。

急患の深夜のベルに怯えつつ目覚むれば反射的に立ちあがりゆく/地崎登美子『きらめく海風』
急患の戸をたたきゐる音きこゆ今日日曜の夜をこもりゐて/小林克郎『どくだみの花』
ひとりだにおとづるる友の気配なく連休に数人の急患を診る/林宏匡『ニムオロのうた』

こんな歌を見ると たいへんだったのだなあ と思う。救急患者が運び込まれる大病院の当直医師もたいへんだと思うが、自宅で開業している医師は24時間365日、そこにいる限りは当直勤務をしているようなものだ。
地崎さんは御夫君が医師。出かける準備を手伝わなければならないという感じか。

殴りつけし妻の頬の腫れ診て呉れとがたがた顫へ真夜を男来つ/岡 和一郎『鬼面川』
診察をへてまかづる吾を見送るとはらから五人戸口に並ぶ/同『雪と雁』

岡和一郎は常磐炭礦の病院に勤務していた人。鉱山だから、みなさん荒っぽい。家庭内暴力といえばそういうことであるけれど、医者を頼って駆けこんできた男の表情も浮かぶようだ。二首目の患者は《くりからもんもん》の人。「はらから」は別の場所の抄出では「兄弟」だったので子どもたちかと思ったが、あらためて読めば血縁とはちがった紐帯をもつ人たちのようでもある。

ページトップへ