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写真-7

一昨日の「柊」で、齋藤茂吉の〈ひひらぎの白き小花(こばな)の咲くときにいつとしもなき冬は來むかふ〉を引いたが、この「來むかふ」という言いまわしについて、確認しておくことにする。

万葉集には、巻1の柿本人麻呂の1首。巻19に、大伴家持の長歌1首と短歌1首がある。引用のルビは適宜略。

日並(ひなみし)の皇子(みこ)の命(みこと)の馬並(な)めてみ狩立たしし時は来向(きむ)かふ/柿本人麻呂

春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼びとよめ さ夜中に 鳴くほととぎす 初声を 聞けばなつかし あやめ草 花橘を 貫き交じへ かづらくまでに 里とよめ 鳴き渡れども なほししのはゆ/大伴家持
ほととぎす飼(か)ひ通せらば今年経て来向ふ夏はまづ鳴きなむを/大伴家持

草壁皇太子を称える人麻呂は「いままさにその時がやってきた」という感じか。佐竹明広他編の岩波文庫版『万葉集(一)』の注釈は「来向かふ」について、さらりと「こちらに向かって近付いて来るの意。」としている。
家持のほうは、季節がめぐってくることの感慨。

意味は通じるが、はたして「来向」の訓みくだしは「きむかふ」で問題なかったのか。近世以来の注釈家に迷いはなかったのか気になるところ(どなたか詳しい方がいらっしゃったらコメントください)。
およそ4500首の中の3首。この用例は多いのか少ないのか。ともかくそれ以来、ほとんど使われなかった言いまわしが明治に入って復活する。
といっても、癖のある言いまわしだから、ぽつりぽつりと使われる程度。

敷島の歌のあらす田又更にすきかへすべき時は来むかふ/佐佐木信綱『思草』
日のめぐり刻(きざ)み進みて御仏を祝ひことほぐ時は来向(きむか)ふ/伊藤左千夫『伊藤左千夫歌集』

信綱は明治36年(1903年)の歌集。伊藤左千夫は没後歌集だが、作品は明治40年(1907年)に分類されているところ。左千夫のほうは、ほかに長歌が1首ある。

信綱の「敷島の歌のあらす田」とは何か。「あらす田」は「荒州田」なのかどうか。荒れ果てた田畑と読んでみるが、そこに「敷島の歌の」がかかる。わが国の詩歌文芸の分野を、いままた耕す時が来たのだという言揚げは、まことに力強い。
左千夫のほうは「釈尊降誕祭讃美歌」の一連にある。信綱はいくらか四季歌の印象も引いているが、いずれも人麻呂以来の「賛歌」を踏襲しているようだ。

前置きが長くなった。

「来向かふ」を爆発的に多用したのは茂吉である。『赤光』には見つからないが第2歌集の『あらたま』から以後の歌集に数首づつ。未刊歌集を入れると30首を軽く越える。こうなると「万葉集語彙」というより「茂吉語彙」である。茂吉の弟子筋を除けば、ほかに釈迢空も10首と少しある。分母(総歌数)を考えると、これもけっこうな数かもしれない。

墓地に來て椎の落葉を聴くときぞ音のさびしき夏は來むかふ/齋藤茂吉『あらたま』

大きなる平和先驅(へいわせんく)のみことのり忝(かたじけな)みし日の八日(やうか)來むかふ/同『とどろき』
大君の海(うみ)の御軍(みくさ)のいきほひの世界(せかい)おほはむ時ぞ來むかふ

『あらたま』では「ひひらぎ」と同じように静かな季節の歌。
だが、未刊に終わった戦時中の『とどろき』のほうはどうか。これもまた人麻呂以来で、堂々とているのではあるが。
『とどろき』の引用1首めは、日米開戦後の毎月8日を「大詔奉戴日」とした戦意高揚キャンペーン。

そうやって「平和」は振りかざすものであったのだ。

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  • 松村正直 より:

    香川景樹の歌に似てますね。「敷島の歌のあらす田荒れにけりあらすきかへせ歌の荒樔田(あらすだ)」
    信綱は『日本歌学全書続』で香川景樹の歌を編集していますので、もちろんこの歌も知っていたのでしょう。だから「又更に」なのかな。

    • 真中朋久 より:

      なるほど「荒樔田」でしたか。
      京都の「宇田(野)」と対になる地名で比定地未詳とか。
      奥が深いです。

  • 松村正直 より:

    探すと他にも出てきますね。

    「年をへてあれたる歌のあらす田もすき返さるゝ世と成にけり」(中島歌子)
    「すきかへす人こそなけれ敷島のうたのあらす田あれにあれしを」(樋口一葉)

    江戸から明治にかけての定番の表現だったのかもしれません。

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