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先日の三連休、自分の原稿を整理していて2012年に某誌に書いた論を見つけました。
斎藤史の短歌と堀口大學の訳詩の類似について述べたものです。(用語は当時のまま)

くろんぼのあの友達も春となり掌(て)を桃色にみがいてかざす  斎藤史『魚歌』
 
黑奴の兵隊さんがやすんでゐる/彼のそばでドニイズはながめてゐる/
かの女の美しさを愛撫したので/そこだけ桃いろに染まつた/男の手のひらを
                     ジヤン・コクトオ「黑奴と美人」

アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き 斎藤史・同

オペラの踊り子も/蟹に似て/きらびやかな樂屋廊下へ/腕を輪にして出てまゐる。
                        ジヤン・コクトオ「踊り子」

散つて散つてとめどない杏の花の道にまぎれこまうとダンテルを着る 斎藤史・同

あすぱらがすはだんてるを着こみ/珊瑚珠のような實(み)を育(そだて)てゐる。 
                      ルミ・ド・グウルモン「庭」
                 *ダンテルはフランス語でレースのこと。

泣いて居る女はまことにやさしくて驢馬のやうなるまたたきをせり 斎藤史・同

少女(をとめ)よ、驢馬に訊ねるがよい、/わたしは今泣いてゐるのか笑つてゐるのか
を?               フランシス・ジヤム「私は驢馬を好きだ」

どうです、似てませんか?
訳詩は一番目は堀口大學『空しき花束』、二番目以降は同『月下の一群』からです。
斎藤史は堀口大學の詩を熱心に読んでいたのでしょう。
モダニズム短歌への堀口大學の訳詩の影響、もっと調べてみたいテーマです。

私は小学生の頃から、詩を読んでいました。
主にこうした西洋の訳詩や立原道造、大手拓次らの詩です。
なぜ小学生が? その理由は・・・

当時愛読していた少女漫画誌『りぼん』の付録のノートに
これらの詩が海外の美しい写真と共に掲載されていたからです。
『りぼん』ですよ!?
寺山修司の名前も『りぼん』で知りました。
美しい写真を見ながら詩を読んで、ふーっと溜息をついていたわけですね。

相当物持ちのいい私なので、『りぼん』の付録の写真を撮ろうかと
探したのですが、さすがにもう持っていませんでした。
代わりに昔行ったノイシュバンシュタイン城の絵葉書を載せときます。

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