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とどろきて汽車鉄橋を過ぎゐればその深き谿(たに)に咲く花も見ぬ /前川佐美雄『積日』1947

 

先に紹介した「半年ぐらいはお世話になりたいと思ひます 御返事願います」という言葉で結ばれていた佐美雄からの手紙の日付は3月15日でした。このころ、つまり、1945(昭和20)年3月は大規模な空襲により各地に深刻な被害が及びました。10日に東京、12日と19日に名古屋、13日に大阪、17日に神戸、そして19日に広島などなど。また、26日からは沖縄戦が始まりました。8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、15日正午に玉音放送が流れるまではあと約150日。

=====手紙の引用はじめ=====

拝啓 前便二つ御覧下されし事と思ひます 急は既に急を要しますので、色々とおうちあわせも致したく、就てはこの二十二日か二十三日の両日中に小生一人御地へまゐり、一泊してすぐひきかへす予定にておめにかゝりにまゐります 色々と御厄介をおかけするでせうが何卒よろしく 切符の都合にて京都から乗車の場合は鳥取着、十四時四十三分 大阪からの乗車の場合は十八時四十七分の列車の何れかに致します 確かな時間は前日中に打電しますから まことに御迷惑ながら鳥取迄貴君か石塚君か御都合にておこし願ひたくう 切符は鳥取迄しか買へませんので、さうして頂いたら小生まごつかなくて安心です 尚申上げし如く適当な家の見つかる迄は旅館住ひをさせてもよろしくその方もお考へ下さい 万々は御拝眉の上にて とり急ぎ右迄 草々
三月十九日朝   前川生
杉原一司君

=====手紙の引用おわり=====

これまで引用してきました手紙の後付はどれも「前川佐美雄」「杉原一司様」となっていましたが、ここでは「前川生」「杉原一司君」となっています。「急は既に急を要します」ということがここにもあらわれていると言えるのかもしれません。日本全体の、日本に住む一人ひとりの、極めて困難で息詰まるような状況が思われます。

=====手紙の引用はじめ=====

拝啓 昨日お手紙(速達の)を頂き、ついで電報を頂き、今日又、速達便のお手紙を頂きました 御入隊せられる由 あまり早急なので驚いてをります 大いにしつかりとやつて頂きたいものです 万々は御拝眉にと存してをりますか疎開につきましては何くれとなく御面倒を見て下され 電報や今日のお手紙を拝見して 妻は感涙してゐます 実は早速返電申上げる筈でしたが、十八日から御地行の電報は一時禁止です それでこの状を差上けるわけですが、小生が御地にまゐる迄につくか否か不明です 二十三日朝出発鳥取へは午后二時四十三分に着く京都発の汽車にてまゐります お手紙をくはしくう教へて頂きましたので丹比駅へ下車致します 二十三日の晩は泊めて頂くかして廿四日の夜行かにて奈良へ戻り家族を送つてまゐるのは廿七、八日になる筈です 万々はあめにかゝりましておうちあはせして頂きたく 奥さんや御両親様によろしくおつたへ願上けます 廿四日は小生は御地のそここゝを見てしたしみたいと思つてをります 色々ごたごたしてをりますので とり急ぎ右様迄 草々
(切符はやつとの事で入手しました 但し片道だけです)
三月廿日  前川佐美雄
杉原一司様

=====手紙の引用おわり=====

冒頭「昨日お手紙(速達の)を頂き、ついで電報を頂き、今日又、速達便のお手紙を頂きました」とある通り、佐美雄からの手紙に対して一司がすぐに応答していることが分かります。戦争末期の極めて困難な状況にあって、郵便や電信網はどのような状態だったのかと思わずにはいられませんが、それでも、奈良と鳥取のこの二人の間での送受信はほとんど滞りなく行うことができていたのでしょう。ただし、「十八日から御地行の電報は一時禁止です」という事態に陥ってしまっています。

一司には急な展開が待っていました。「御入隊せられる由 あまり早急なので驚いてをります」と佐美雄が書く通り一司に召集令状が届いていたのでした。このとき一司は18歳。2月21日に令子さんと入籍したばかりでもありました。年譜(『杉原一司歌集』綜合印刷2020)によれば一司が入隊したのは3月27日のことですから、赤紙を受け取ってから入隊までの準備期間は2週間ほどだったのでしょう。

「二十三日朝出発鳥取へは午后二時四十三分に着く京都発の汽車」に乗ってやって来た佐美雄とどのような思いを胸に抱いて一司は語り合ったのでしょうか。鳥取の山深い丹比(たんぴ)村の夜の暗さが思われます。

*手紙の引用はいずれも『杉原一司宛 前川佐美雄書簡』鳥取大学地域学部2021

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